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三行半研究余滴⑭  短い、二行の三くだり半

高木 侃

余滴⑪の「三くだり半は三行半」で、三行半の行数を厳格に順守するために、四行目を途中から書き出して三行半にしたものを紹介した。それほど三行半に固執した離縁状は、全体のどのくらいを占めていたのであろうか。
九〇〇通を整理した結果では、ほぼ四通に三通、実に約七五パーセントが三行半だった。離縁状が「三くだり半」と俗称されたのは、これが三行半に書かれたことに由来することはすでに何度か述べている。しかし、残りの四分の一は三行半ではなく長短さまざまであった。数字をあげれば、三行半以外で三行に満たないものは約七パーセントで、一行半が二通、ほかは二行半で、三行が約二パーセントである。
三行半より長いものでは、四行が約四パーセント、四行を超えるものが約一三パーセントである。ちなみに、これまでに見いだしたもので、もっとも短い離縁状は一行半で、最も長いものは十六行半である。
今回入手の二行の離縁状の写真(左頁)と解読文を掲げる。用紙はタテ二七、ヨコ一八・八センチで一部に虫食いがある。入手経路から用いられた地域は下野国(栃木県今市市=現日光市)である。年号の天明五年は一七八五年で、干支は「乙巳」。乙とも巳とも読めるが、十二支で書かれることの方が多かったことから、ここでは「巳」と読んだが如何であろうか。
    離別状之事
一きよ義、致離別候ニ付、何方え
 縁組候共構無御座候、仍て如件
         長重郎?
 天明五巳年五月日
     長兵衛殿
本文の内容はこうである。
きよ、そなたを、離別いたしました。
どこへ縁組されても、かまいません。
以上の通りです。
離縁状には、離婚したという「離婚文言」とだれと再婚してもよいという「再婚許可文言」とからなるのが通例である。かつて石井良助氏はこの要素を書くと三行半位になって、それが三行半に定着したという、積習結果説を唱えた(後に発展させて離縁ゆかりの七去の七を半分にしたとする七去影響説となる)。
右の離縁状は離婚文言と再婚許可文言の二つを書いてあるが、三行半に満たない短い離縁状では、はたしてこの二要素を含んでいたのであろうか。
実例では二要素のうち、いずれか一方しか記載していない離縁状は全体の五パーセントしかない。もっとも短い二行に近い一行半の離縁状を掲げる。
   離別状之事
一其元義、私意ニ不叶義有之、依之
離別相遣し候、仍て如件
 安政四巳年
   二月     平  助印
     き   ん殿
ここには離婚文言しか書かれていない。25歳の「きん」は江戸橘町から離縁を願って縁切寺東慶寺へ駆け込んだ。その後示談で離縁になったときの内済離縁状である。離縁状は夫から妻へ渡されるのであるから、夫から受け取った妻方関係が持参した離縁状を寺で写し置いたものである。
東慶寺の駆け込みにふれたので、もう一通紹介しよう。
 一りゑんちうの事
此ふじとゆう者ハ
かまいこさなく候
ねんのため
      長坂村
       勘右衛門爪印
長坂は相模国三浦郡の村(神奈川県横須賀市)で、関係文書によれば、「ふじ」は嘉永7(1854)年7月に駆け込み、8日後には内済離縁が成立している。離縁状には「ふじ」が(誰と再婚しても)構わないと再婚許可文言のみが書かれているようにみえるが、表題に「離縁状の事」とあり、二要素を書いたものといえる。なお、表題に「一」が付いている。本文二行半と合わせて三行半にしたつもりのようである。
ここでは二つのことを述べたに過ぎない。一つはちょうど二行の離縁状は稀で珍しいこと、もう一つは離縁状の二要素のうち一方しか記述していないものは短い離縁状に多いが、たとえ短くとも二要素を書くべきとの観念があり、事実そのように書いたことである。
[たかぎ ただし/専修大学史編集主幹・太田市立縁切寺満徳寺資料館名誉館長]