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  • PR誌『評論』172号:思い出断片 9 ヴィーン遊学(続)

思い出断片 9 ヴィーン遊学(続)

住谷一彦

これは一つの物語である。主人公は私。ときは1958年、半世紀も前の話である。私はR大学の助教授になったばかり。たまたま翌年正式に受けるつもりで、事前にどんなものか経験してみるくらいの気軽な気持でオーストリア大使館に出向いた。ヴィーンは以前から一度は行ってみたい都市でもあった。行ってみると東大生の松野君というドイツ語の会話がよくできる学生が来ていて、会話の準備も不十分で、ろくにしゃべれない私は、最初からコムプレックスを抱いていた。試験官の領事は、私にいろいろ質問するのだが、さかんにSieをシーと濁らずに発音するのに面喰らった。私が旧制高校でドイツ語会話を習ったときの先生はドイツ人で、Sieをジーと発音し、私はそれになじんでいたので、最初からとまどってしまったのである。しかし、受験したのが松野君と私の二人だけだったのがさいわいしたのか、二人とも合格してしまった。オーストリア政府が留学生制度をきめたのは今回が最初で一般によく知られていなかったせいかもしれない。それで翌年受けるつもりでテストしてみたのが、正式に合格となってしまい、何の準備もしないままに一週間後にはもうルフトハンザ航空機に乗ってしまう破目になった。私はこうしてドイツ語会話も習わぬままで、ヴィーンに向けて出発したのである。
飛行機はダグラスDC3型。双発機で飛行高度は3000メートル。速度も300キロぐらいで、スイスのチューリッヒまで二泊三日の旅。ヒマラヤ山脈中腹を右に見て、その偉容に感嘆しながらチューリッヒに着いた。ドイツ語会話のできない私は、ただ松野君にくっついて歩くほかはなかった。ヴィーンに着いたのは翌日午後1時。シュヴェハーター飛行場に着いてヴィーンのバスターミナルで下りたら、そこにヴィーン大学日本学科講師のスラヴィーク先生が奥さんの森崎さんと迎えに来てくれていて助かった。松野君と別れ、スラヴィーク先生夫妻と下宿先のプファイル・ガッセの宿舎に赴く。スラヴィーク先生は薄給の私を慮ばかって、安く食べられる Wök(ヴェーク) という食堂も教えて下さった。宿舎にはすでに松野君が来ていて私を迎えてくれた。彼と同宿なのは心強かった。
スラヴィーク先生は弟子のクライナー助手を後継者と考えていたようで、彼を私の相談相手に選んでくれたのである。クライナーは独り息子で母と叔母の二人が彼を可愛がっていた。まるで二人母をもっていたといえるくらいである。彼の住んでいるところは、ヴィーン郊外カーレンベルクにあるヌスドルフという村で、カーレンベルクの丘に上ると、遙かにドナウ河がみえた。茶色っぽい色の流れは、ヴィーンっ子に言わせると、あれが青くみえなければヴィーンっ子とはいえないと見栄を切っていた。
私は日本の友人からたのまれて、オーストリア中部にあるトラウテンフェルス城で開催された世界キリスト者平和会議に出席したとき、そこの事務局長をしていたエディット・ペトルーという女性の世話になった御礼に日本から持参した大きな絵模様のある一寸派手な扇をプレゼントしたのがきっかけになって、彼女にその地方の名所旧蹟を案内してもらった。エディットは王宮で母とともに働いており、私を通してスラヴィーク先生の研究室に顔を出すようになり、すぐスラヴィーク先生夫妻とも親しくなった。私より九歳年下だったが、24歳の細身で白面、口唇の赤い、歩いていると人目につく女性でもあった。どういうわけか日本に対してたいへん好奇心をもち、私が話したこけしにとても興味をいだくようになった。彼女に関心をいだく男性は多かったが、彼女は私ひとりに交際相手をしぼったようである。
ヴィーンの冬は寒く、ハンガリー平原から吹き寄せる風は、ときに零下30度の寒気をよびこんだ。それでも私は彼女と一緒に寒さに対してはオーバーに身を包んで、せっせとオペラ通いをした。私は彼女と斎藤茂吉がヴィーン女性をつれて旅行したシュタイアーマルクにもよく出かけた。しかし、私たちの交わりは半年で中断した。翌年2月には私は帰国せねばならなかったからである。寒い雪の降るウェストバーンホーフ駅から発つとき、雪で真っ白になったプラットホームに黙然と立ちすくんで見送っていた彼女の黒いオーバーに身を包んだ姿が半世紀経った今も私の視野に鮮やかに残っている。
                                                                     [すみや かずひこ/立教大学名誉教授]