• TOP
  • PR誌『評論』
  • PR誌『評論』198号:『明治日本の文明言説とその変容』刊行にあたって

『明治日本の文明言説とその変容』刊行にあたって

許 時嘉

戦後から戒厳令解除後の90年代までの間に、台湾で学生生活を送った本省籍の人々の中には、次のような経験をした人がいるのではないだろうか。学校の歴史教科書に載っているのは、植民地時代の悲惨な被植民者の生活ばかりだが、家に帰ってから、戦前日本統治時代を経験した年配者からポロッと出た話は、黄金のように輝いた青春の記憶だった……。
戦後台湾の急進的な脱植民地化の流れの中で、教科書の史実と体験者の記憶とに、立場の違いや外部のイデオロギーの変化によって食い違いがあるのは当然である。しかし植民地近代性の威力は、植民政権が撤退してからも、実体として存在し続けていることが実感されるのである。
この些細な経験が頭の片隅に残っていることで、植民地台湾における被植民者たちの文明体験は如何なるものだったのか、ということがいつも気になっていた。博士後期課程進学後、恩師の前野みち子先生と、「文化記号塾」の前野佳彦先生のご指導により、一つの現象は単独の事件として孤立しているのではなく、事件と事件、現象と現象との関連性・連動性にも、常に注意を払わなければならないことに気づくことができた。その後、明治維新から大東亜戦争への道を歩んだ、近代日本の精神構造の複雑性に疑問と関心を持ちはじめ、従来の植民地研究から東アジアの近代とそのイデオロギーの研究へと拡大した。その成果は2010年11月に名古屋大学大学院に提出した博士学位論文として結実し、今回『明治日本の文明言説とその変容』として日本経済評論社から刊行することができた。
本書ではこれまで過小評価されてきた「明治日本の文明言説と植民地統治における前近代的な意識の働き」の矛盾・齟齬に焦点を合わせ、次のような問題についての考察を模索した。東アジアの近代化にともなう思想的変化、特に東洋の儒教的士大夫意識と西洋近代合理主義との意識上、思想上、文化上の対立、読み替え、入れ替えが明治日本の知識人やイデオローグたちの言論活動においてどのように生じ、行われたのか。それらの空理空論的な文明観が、現実の植民地統治や文化的諸場面に直面しその不適合を自覚したとき、どのような迂回や変形を経て現実の状況に適合されたのか。また、このイデオロギーの変形の描く曲線は何を意味し、どのように戦前日本の膨張原理と繋がっていたのか、等々。本書のタイトルに副題を入れるとすれば、「植民地台湾の統治実態との連動」というフレーズがふさわしいだろう。
本書の序でも説明したが、明治日本の対外拡張への欲求の展開と、台湾経営との連動関係から生じた文明観の多様性に注目するためには、まずは明治の変動期において各イデオローグの主張の裏に潜む思想の基軸とその関係図を明らかにしなければならない。それで第一章と第二章は、明治日本のイデオローグたちの言説(福沢諭吉、西郷隆盛、勝海舟、中江兆民等)を対象として、文明理念の各位相を観念的政治言論の次元において座標化し、それぞれの観念を考察、把握した。第三章では政教社の同人である志賀重昂と内藤湖南の国粋主義を対象として、文明論と対外拡張の欲求の連関を分析した。
さらに、この他者を文明化する使命感が、実際に植民地台湾の経営に向けられた場合には、どのように実行され、あるいは変形されたか。それを考察するため、第四章では台湾経営の旗手・後藤新平の、膨脹理念と植民地経営方針に現れる文明意欲とその屈折を、第五章では台湾人紳士の文明理解、特に断髪活動の自発性に現れる多様な思考と総督府の対応を中心に分析を行った。
最後は東洋的士大夫理念に見られる〈文〉の意識と〈文明〉の相関関係に注目し、明治期の〈文明〉概念が内包する伝統的文明観の変容を、植民地統治体制との関連で考察した。第六章では後藤新平と台湾人紳士の間に生じた〈文〉の意識の齟齬を、日中朱子学思想の相違において分析し、第七章は新旧文体の転換期における日本漢詩人と台湾人紳士の、〈文〉の意識とそのあり方を検討した。
本書は東アジアの〈文明〉志向に内在する前近代的な様相を浮き彫りにすることで、近代日本の植民地統治の特性について再考を試みた一冊である。
[きょ じか/山形大学人文学部専任講師]