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自由民権〈激化〉の時代① 『自由民権〈激化〉の時代』刊行によせて

飯塚 彬

自由民権運動という歴史事象にどのような意義を見出すか。その問いに答えることは簡単ではない。ただ、この政治運動が演説・討論や雑誌・新聞発行、結社活動を行う有為の青年(自由民権運動家)を生みだしたことは確かである。彼らが全国各地で一般民衆に権利・責任という政治的自覚や政治熱を植え付けたことは、日本の近代国家形成に大きな役割を果たした。従来、自由民権運動展開から衰退期における「自由党激化事件」の担い手たちへの評価は、そうした観点からみると「敗北」や「挫折」の歴史として語られることが多かった。
しかし、彼らが行ったのは明治政府の自由民権運動弾圧への暴力的反発ではない。減租請願運動等の地域住民の要求に即応しながら、政治的活躍の場としての国会開設を目指す一面も有した。激化の主体となった自由民権運動家の事績はそうした側面と共に語られるべきである。
2011~14年に激化事件130周年を迎え、新潟県(上越市)、福島県(喜多方市)、埼玉県(秩父市)、茨城県(筑西市)等、各地で事件像の研究・再評価が行われている。そこでは激化諸事件の今日的意義も模索されている。
筆者も参加した「自由民権『加波山事件』生起130年記念祭」(於筑西市立中央図書館 2014年9月28日)を例にしたい。従来、参加者のほとんどが福島県をはじめとした他県出身者で占められた加波山事件に関して、茨城県内においては実証的に事件を検証しようという動向は、長く表面には現れなかった。しかし、同記念祭は大きな契機となった。例えば、筑西市在住の郷土史家、桐原光明氏は事件を「自由民権運動の一環」と捉え、現代日本の政治や国際情勢とあわせて激化の意味を考察した。また、事件関係者の御子孫が同記念祭で積極的な史料提供・紹介を行っていたことも印象的であった。事件関係者の事績を伝えるため伝記を復刻(私家版)し、新聞に取り上げられた方もいる(2012年9月20日付『茨城新聞』)。こうした動きは新たな研究・再評価の可能性を秘めている。現在では、記念祭参加者が中心となり「自由民権運動・加波山事件の歴史的意義」を再考するための「加波山事件(自由民権運動)研究会」が発足し、活動中である(代表は上記の桐原氏)。
安在邦夫氏の『自由民権運動史への招待』(吉田書店、2012年)では、激化諸事件も含めた「自由民権運動史」から、希望と共に、未来を展望でき得る歴史認識を持つための手がかりを探ろうと試みているが、そういう同氏の主張にも連なるものとして注目したい。
本書はそうした動きを背景とした激化事件研究会(2009年8月発足)参加者の問題提起である。各論文を紹介すると、高島千代氏や岩根承成氏の論文は激化事件参加者の主張が地域住民のそれと密接に関わり、激化事件が孤立分散的に起こったものではないことを明らかにする。そこで問題とされるのは具体的な要求であった減租請願運動や国会開設請願運動である。横山真一氏の論文からは、その中核を担った青年民権家層が当初は学問的・啓蒙的な結社で活動する知識人層であったことがわかる。そうした者たちが何故、激化、すなわち蜂起するに至ったのかを追及したのが黒沢正則氏や飯塚の論文である(秩父事件の田代栄助、加波山事件の富松正安)。安在邦夫氏の論文では、福島・喜多方事件発生過程における県側(福島県令の三島通庸を中心に)と民衆、民権家の対立から「暴徒」史観が明治期に意図して創作されていく過程をみることができる。その結果、激化事件は官憲側の「常事犯」と自由党員・事件関係者の顕彰にみる「国事犯」の狭間の中で一定しない評価をたどる。こうした評価のせめぎあいについては加波山事件(中元崇智氏)や秩父事件(篠田健一氏・鈴木義治氏)の例を元にして論じられている。
本書によって提示される自由民権運動激化事件像は、西欧諸国から輸入された「自由」や「権利」の概念を応用し、明治期における日本の近代国家化において望ましい国家像を追求し、その理想を急進的に追い求めた者たちの主張や生き様を浮き彫りにする。彼らの主張や生き様は、決して「敗北」や「挫折」に集約されるものではない。現代を生きる我々一人一人に「日本を、どんな国・社会にしたいですか」という問いをも投げかけている。
[いいづか あきら/法政大学大学院]