新潟大学時代の宇沢弘文先生

藤井 隆至

「おとうさん、きょうサンタさん見たよ!」
夕食のとき、小学校一年の娘が高揚した口調で話しかけてきた。「サンタさん」とはもちろん宇沢弘文先生のこと。学校から帰る途中で、先生が走っているところを発見したという。先生が、地元の子どもたちから「サンタさん」と呼ばれていた理由は説明不要のはず。重厚な白ひげと軽快なジョギング姿、そのアンバランスな組み合わせは子どもたちに強い印象を与え、先生は小学生のあいだで話題の中心人物になっていた。雨が降りそうなときは、こうもり傘を片手に走っておられた。
当時の新潟大学経済学部は、ある必要があって、東京大学を定年退職なさった先生方をお迎えする方針をとっていた。諸井勝之助先生からはじまり、佐藤進、宇沢弘文、佐伯尚美、戸原四郎、中西洋、肥前栄一、廣田功といった先生方が協力してくださった。宇沢先生は一九八九年四月に新潟大学に赴任なさり、五年後の1994年三月に第二の定年をお迎えになった。先生の『経済解析 基礎篇』は、新潟大学時代の労作である。
先生をお招きするときの経済学部長は湯浅赳男さんだった。ある日、「何と言って宇沢さんを口説いたんですか」とお尋ねしたことがある。「地方の教育事情を見に来てくださいとお誘いしたんだよ。けっこう真剣に聞いてくださった」というお返事だった。先生は教育についても発言しておられた。そのことを知ったうえでの口説き文句だった。宇沢獲得にむけて手をあげた大学は複数あったと聞いているが、この口説き文句が功を奏したのか、まもなく“新潟大学教授宇沢弘文”が誕生することになった。
先生の招聘が教授会で決まったあと、学務委員長だった私は、次年度の授業に関する打ち合わせ等で先生と接触することになった。筆まめな方で、文字には風格があった。署名には、旧漢字の「澤」を使っておられた。太いペン先の万年筆をご愛用で、草書まじりの楷書でお書きになっていた。万年筆は高い位置でお持ちになり、毛筆に近い筆運びをされていた。対応はきわめて迅速で、事務処理能力の高い人だった。
新潟大学時代の先生は、ときおり(しばしば?)私たち同僚を集めてビールパーティを開いておられた。宇沢パーティと私たちは呼んでいた。人集めは、廊下で出くわした若い教員に一任しておられた。先生は缶ビールとつまみを用意された。特定の数人で飲むことはなさらなかった(と思う)。
先生のお話は人物月旦が多かった。内容は明快で、「○○さんはいい人でねエ」とか、「○○さんって悪い人でねエ」と訥々とした語り口でお話しされた。先生のお話には、「いい人」と「悪い人」の二種類しか登場しなかった。ネタは豊富だった。
しかし注意する必要がある。「悪い○○さん」は学界の外側にいる人たちで、私たちと面識がない人ばかりだった。学界内の話をするときに「悪い○○さん」は登場しなかった。たとえば先生によれば、アメリカの大学をやめて日本に帰ってきた理由は、ベトナム反戦運動へのかかわりを深め、アメリカに絶望したからだった。噂される某教授に触れることはなさらなかった。舌禍を起こすことがないように細心の注意を払っておられたのではないだろうか。
先生には警察の警護がついていた。成田空港問題円卓会議のメンバーだったからである。とはいえ、大学内で警護らしき人を見かけたことはなかった。警察も目立たないように気を使っていたのであろう。
ただ一度だけ、先生が私の家にお立ち寄りくださったとき、警護をお見かけしたことがある。先生は警護の車に乗ってやってこられた。車は二台で、前座席に二名の警護が乗っていた。先生が拙宅にいらっしゃるあいだ、車は門の前で向かい合うように停車し、エンジンはかけたままであった。賊が左右どちらの方向から侵入・逃走しても、どちらか一方の車がただちに追跡できる配置である。
以下はたぶん先生のお耳に入っていないはず。警護のことで苦情が寄せられたことがある。先生がお住まいの公務員宿舎は集合住宅であったが、二台の車が夜通しエンジンをかけたままで警護している。“エンジン音がうるさくて窓をあけられない”と同じ公務員宿舎に住む他学部の教員から、当該学部長を通して苦情がきたのである。経済学部長が事情を説明して納得してもらったが、公害問題に立ち向かってこられた先生が、ご自身はあずかりしらぬこととはいえ、騒音公害で苦情を受けた皮肉な一こまであった。もう時効だと思うので書き添える。
話かわって、あるときの教授会。入試制度の改革をめぐって小田原評定をやっていたとき、先生は「成績の悪い人から合格させてはどうですか」と提案なさった。突然の過激発言に一同は驚き、しばらく沈黙が続いた。そのあと話題は別の方面に転じ、先生のご提案はそのまま立ち消えになった。しかし“教育とは何か”の原点に立ち返れば、地方の教育事情を汲んだご提案であったようにも解される。地方での人口減少の一因に教育環境の地域間格差があることは知られているが、このような問題は現地にいないと切実に感じることはない。湯浅学部長の口説き文句を真剣にお聞きになっておられた先生は、新潟県内でつぶさに見聞を広げておられたのではないだろうか(農業界との交流も増えている)。
あのときは過激に聞こえた先生のご提案は、その後、受験生の個性や適正等を評価するべきだと考えるAO入試等の形で広く普及した(AO入試等に先生が満足しておられたかは別である)。そのほかにもサンタさんは、私たちに多くの“プレゼント”を与えてくださった。ただし先生のプレゼントは、私たちに多大の知恵と汗を求める。宇沢先生は何をおっしゃりたかったのか、先生のお仕事を体系的に精査し、「サンタさん」の真のお姿を見ることは、生を共にできた者の当然の務めだと思う。
最後に先生のお人柄を示すエピソードをひとつ。公務員宿舎ではゴミ集積所の掃除当番が輪番で回ってくるが、その日の先生は東京にいらした。掃除といっても数分で終わる簡単なものだが、その数分のために先生は日帰りで東京・新潟を往復なさり、ご自身の責務を果たされたという。
[ふじい たかし/帝京大学経済学部教授(新潟大学名誉教授)]