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  • PR誌『評論』197号:『近代日本の国民統合とジェンダー』を上梓して

『近代日本の国民統合とジェンダー』を上梓して

加藤 千香子

「日本では此の婦女子と云ふものは、将来結婚して妻になり母になるものであると云ふことは、女子の当然の成り行きであると云ふに極つて居るのであります」、「男子は社会的活動と其思索的能力とに於て文明に貢献し、女子は其本性に依つて人類の繁殖と進歩の為に努力す可きもの」、「女子の任務は男子と結合して、子供を算出すべきである。これによりて女子がこの世に存在するの意義が明になるのである」。 本書で取り上げたこれらの言葉は、いずれも100年前に文部大臣や名だたる医学者らによって公の場で語られたものである。 では、それから100年経った今日、女性に投げかけられる言葉はどうだろう。今年6月、東京都議会で少子化問題に関する質問を行っていた塩村文夏議員に対して「自分が早く結婚しろ」「産めないのか」といったやじが投げられたことは、記憶に新しい(さらにやじの本人は弁明の中で「早く結婚していただきたいと思ったため」とも発言した)。 100年の時を隔てながらも公的な場での言葉がいかに似ていることか。こうした状況を見るならば、女性を結婚や生殖という観点からしかとらえず、それこそが女性の存在意義であると決めつける傾向は、依然として根強いことが明らかだろう。そこに、ひとりの人間の自由な生き方を尊重する発想が見えないことも同様である。 歴史をふり返ると誰でも分かるように、この100年間には、敗戦後の戦後改革による家父長的な家制度の否定や女性参政権、教育の機会均等政策があり、さらに男女雇用機会均等法や男女共同参画社会基本法がつくられている。法制度的観点に立つならば、男女平等政策の進展は、女性の社会進出や地位の向上をもたらしたはずである。 しかし、そうした法制度上の表向きの「平等」の裏面で、なお女性(あるいは男性も)を一律にとらえ、女性(男性)はこうあるべきという決めつけがまかり通る状況はなくなっていない(確かに都議会のやじは「セクハラ」として問題化したが、発言を生む土壌が問われることはない)。むしろ近年は、その傾向が強まっていると言ってもよいかもしれない。 さて、本書を通じて論じようとしたのは、そのようなひとりひとりを「女性」もしくは「男性」の括りに囲い込み、女性/男性はこうあるべきという決めつけ(本書ではそれをジェンダー規範あるいはイデオロギーと呼んだ)の問題にほかならない。検証の対象に据えたのは、人びとを括る規範・イデオロギーが、近代国民国家の建設、拡大を進めるための国民統合の強化の要請とともに再生産されていくプロセスについてである。 本書には「国民統合とジェンダー」というタイトルをつけたが、それは国民国家論に基づく「国民統合」とジェンダー論を分析方法の柱としたことを表している。 国民統合を問題にする国民国家論は1990年代に登場したが、それは、私たちの所属する国民国家が決して自明でも本質でもないこと、それが平等や正義を体現する反面で排他的で抑圧や差別的な構造を抱えていたことを暴くものであった。また、「ジェンダー」という概念は、社会の中の女性の位置や男女の差異を問題にする際に広く使われるようになっているが、そもそもは「社会的文化的性差」と定義されるように、性差と認識されるものを本質的とみなさず、社会や文化によって「創られる」ものしてとらえ(それゆえ変えていくことも可能)、既存の差別的な処遇や認識を問うていくために、やはり90年代頃から使われるようになった概念である。 今日、既存のジェンダーや国民国家がその軋みをあらわにするなかで、逆に顕在化する矛盾を糊塗するために、それらを再強化しようとする力が強まっている状況は、バックラッシュあるいはヘイトスピーチの激しさからも明らかである。本書に所収した論文は、1990年代から2000年代にかけて国民国家論やジェンダー論に学びながら書いたものであるが、今回本書を上梓する過程であらためて、それらの今日的意義を再確認している。 [かとう ちかこ/横浜国立大学教授]