アジア人は矮小か

永谷 敬三

私は29年間カナダのバンクーバーにあるブリティッシュ・コロンビア大学で経済学を教えたが、カナダの太平洋岸にあるこの大学にはアジア人学生、とくに香港(併合前)を筆頭に、中国、韓国等東アジアからの留学生が多かった。経営学、経済学といった実学的分野は彼らに人気があって、アジア人学生がマジョリティーを占めるくらい多かった。アジアからの留学生にはいくつかの特徴があった。
第一に、点取り虫ではあるが、純粋な知的好奇心がない。第二に、世間知というか、常識に欠ける。第三に、権威主義的で、教師の言うことを鵜呑みにし、それを覚え込むことが学問だと思い込んでいる。第四に、クラスで質問を発することはなく、ただ黙ってノートを取る。彼らが発する質問は唯一つ、「今日の講義内容は試験に出ますか」だけである。第五に、勉強に集団主義戦略を持ち込み、講義のノート取り、試験前の準備等を分担して行う。担当教師が過去に出題した問題を手分けして探し出し、その教師を含む幾人もの教師に答えを訊いて回る。第六に、点数を上げるためなら試験における不正行為もいとわない。
私は1997年還暦を機にブリティッシュ・コロンビア大学を早期退職して、以後2005年まで日本の大学で教鞭を執ったが、日本の大学生にも、上記のアジア的体質というか嗜好が多々窺えた。生物学に幼形成熟という概念があり、人類の中ではモンゴロイドにそれが一番顕著に観察されるという説を聞いた記憶があるが、上記の未熟さも幼形成熟の一態様なのだろうか。
カナダ人の学生は大学に入ってから真面目に勉強する。高校まではスポーツで体を鍛え、社交などを楽しんで、張り切って大学にやってくる。入学時点における知識の量はアジア人学生より劣るが、凄い馬力で好奇心を露わにして学問をやる。バカな質問もするけれど純真で、18歳でもう人生に疲れたような顔をしたアジア人学生よりずっと教え甲斐がある。そして大学卒業時点ではアジア人学生を追い抜いてしまう者が多かった。
東西の大学生のこういう違いはどこから来るのか。要因はいくつもあるだろうけれど、私は東アジアに共通する受験競争制度が主因だと考えている。競争は小学校いや幼稚園から始まり、いい小学校に入ったらすぐ中学校入学の心配をし、以下、高校、大学と続く。どのレベルでも受験問題は同じで、受験勉強の努力投入量は大変なものだが、中身は無味乾燥、将来役に立ちそうな発展性のある問題、あるいは記憶に残る独創的な問題などない。後ろ向きの復習問題、無難な問題と何年も格闘するわけだ。
受験勉強の弊害はいくつもある。その第一は、問題の正解を決めるのはどこかのエライ人で、受験生には質問権も抗議権もない。これが若者の心を卑屈にさせる。第二は、問題には正解が必ず一つあるという幼稚な信仰を若者に植え付ける。世の中の問題には正解が複数あるもの、無数にあるもの、逆に正解がないものもある。与えられた問題がどの範疇のものかを判断する能力は受験勉強では一切身につかない。第三は、試験に出ない問題は存在しないから無視してよいという無責任な処世哲学を若者に叩き込む。こういう受験勉強を何年かやると、上記のような幼稚な若者ができるのではないかと私は思っている。
日本はすでに大学全入時代に入っている。それなのになぜ受験競争がなくならないのかというと、大学間の選別競争が無傷で残っているからだ。企業側が大学名によって応募学生の選別をする風習がまだ一般的だという。また『週刊朝日』『サンデー毎日』のような上級週刊誌が、毎年春になると、有名大学合格者数による全国高校ランキングをこれでもか、これでもかとばかりに華々しく記事にして教育ママを焚きつける。私が受験生だった60年前にすでに社会問題化し始めていた受験地獄が一向になくならないわけだ。日本の大学が高校生の選抜に費消するカネと労力を大幅に減らし、そこから生まれた財源を大学生の教育指導に向けるべきであることは明白である。
[ながたに けいぞう/ブリティッシュ・コロンビア大学名誉教授]