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  • PR誌『評論』172号:『日本近代法学の先達 岸本辰雄論文選集』の刊行によせて

『日本近代法学の先達 岸本辰雄論文選集』の刊行によせて

村上一博

パリ発祥の地であるシテ島からサンミッシェル大通りを南に下って行き、左手にソルボンヌの教会を過ぎると、リュクサンブール公園の東口に至る。スフロ通りの先、カルチエ・ラタンの丘にたつパンテオンに向かって進もう。
通りの左側には、Dalloz など法律書専門店が並ぶ。パンテオンの正面に向かって立ち、左手を仰ぎ見ると、「FACULTE DE DROIT」の金文字が眼に飛び込んでくる。ここが、パリ大学旧法学部、今から130年ほど前、ボワソナードに学んだ、若き日の岸本辰雄ら司法省留学生たちが、正規の法学教育を受けた所である。
岸本辰雄と聞いても、その人物像や業績について知る人は少ないであろう。高等学校までの日本史関係の教科書や参考書の類には、その名前を見出されないし、法学界においても、周知の人物だとは言えそうにない。しかし、岸本辰雄こそは、①日本近代法学の母胎となった司法省法学校の第一期生として、御雇法律顧問のボワソナードらからフランス法を学び、パリ大学に留学した経歴をもつ、我が国における近代法学の開拓者の一人であり、帰国後は、②民商法典その他の立法事業に関わり、近代法体制の基礎を築いた法制官僚・法学者の中核的存在であった。また、同時に、③明治法律学校(現在の明治大学)の「生みの親」「育ての親」として法学教育に献身して多くの実務法曹を輩出した育英界の大立物であり、さらには、④大審院判事・弁護士として活躍した法曹界の元老でもあった。岸本は、まさしく、日本近代法学の形成過程に燦然と輝く大先達であった。
岸本・宮城浩蔵・小倉久の三名は、明治九(1876)年秋にパリ大学法学部に入学した。前年に、木下廣次・磯部四郎・熊野敏三・井上正一ら七名が既に入学しており、岸本ら三名は、司法省法学校正則科一期生のパリ留学組の第二弾ということになる。岸本・宮城らのパリ生活を伝えてくれる当時の勉学ノートや日記あるいは書信の類はごく僅かしか残されていないが、パリの国立古文書館(Archives nationales de Paris)に保管されている学籍記録から、彼らのパリ生活の一端を知ることができる。学籍記録によると、岸本ら三名は、1876年11月13日にパリ大学法学部への登録許可(文科バカロレア資格の免除)を得て、同月15日に揃って第一回目の授業登録を行っている。岸本は、その後も順調に勉学を進め、79年6月17日に第12回登録を終え、11月19日には法学士論文の口頭試問を受け、12月3日に学士号を取得した。他方、宮城は、大病を患ったために、77年11月5日の第5回登録から78年6月26日の第6回登録まで、半年以上を要し、漸く79年11月5日に第10回登録にまで漕ぎつけているが、その後の消息について学籍簿は何も語ってくれない。おそらく、岸本らが卒業してパリを離れたこともあって、宮城は、80年の冬学期からリヨン大学に転学したと推測される。パリ大学法学部において、彼らが指導を受けた教官としては、Bufnoir, Gide, Leveillé, Vuatrin, Rataud などの名前が知られる。
パリ大学旧法学部の正門を出て、校舎を左手に回り込んでクジャス通りに出よう。右手にクジャス図書館、次いでソルボンヌ校舎をやり過ごし、サンミッシェル大通りを横切って、さらにヴォジラール通りを行くと、オデオン座に着く。オデオン座正面に向かって左手、ラシーヌ通り23番地 (23, rue Racine)の Hôtel Relais Medias、ここがかつて岸本が、西園寺公望・熊野とともに3年あまりを過ごした、かつての学生下宿である。ほんの十数メートル先のムッシュ・ル・プリンス通り43番地 (43, rue Monsieur le Prince)のHôtel Saint Paulは、宮城の旧下宿であり、木下・磯部・井上らの下宿も、徒歩三分と離れていない場所にあった。 彼らは、このオデオン座界隈の一角から大学に通って講義を聴き、エミール・アコラスの私塾に通い、あるいは夜の盛り場に繰り出したのである。
昼間の雑踏・喧騒が止んで静まりかえった夜更け、この界隈を歩いてみると、狭い石畳の路地や石造りの塀のそこかしこから、健康を損ないながらも、明治日本における近代的法制度を立ち上げるという重責に苦しみもがく声が聞こえてくる。ワイングラスを手に、口角泡を飛ばして熱っぽく語り合う彼らの姿が浮かび上がってくる。         
[むらかみ かずひろ/明治大学法学部教授]