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  • PR誌『評論』194号:特定秘密保護法と横浜事件、私たちの不自由と自由

特定秘密保護法と横浜事件、私たちの不自由と自由

米田 綱路

特定秘密保護法案の審議が大詰めを迎えた12月初め、国会前で悪法反対を叫びながら横浜事件を思い浮かべた。“21世紀の治安維持法”制定の動きのなかで、戦中の言論人と出版人に対する一大弾圧事件が、70年の歳月を飛び越えて師走の寒空に浮上した。
その何日か前に、横浜事件の被害者の一人で改造社の編集者だった小野康人さんの息子・新一さんと娘の斎藤信子さんが、法案反対の声を上げたことを知った。二人にとって横浜事件は父の雪冤だけでなく、治安維持法の再来を阻止するための歴史でもあった。
いまから30年近く前、“戦後政治の総決算”を掲げた中曽根政権が国家秘密法(スパイ防止法)案を国会に上程した。特定秘密保護法の嚆矢であり、戦後40年にして治安維持法の再来かと、二人の母で小野康人さんの妻・貞さんは危機感をつのらせた。夫は2年2カ月も拘束されて激しい拷問を受け、冤罪の重荷を負わされたが、裁いた側の横浜地裁はGHQの進駐直前に裁判記録を焼き捨てた。約60人を逮捕し、四人を獄死させた国家犯罪の証拠を隠滅したのである。夫亡きあと貞さんは、現在への危機感に突き動かされるようにして再審請求に取り組んだ。母亡きあとは二人が引き継いだ。
そしていま、特定秘密保護法に直面する私たちが、横浜事件の記憶を継承し伝達する局面に立っている。安倍政権は改憲によって、憲法に保障された言論・出版の自由に制限をかけようとする。特定秘密保護法はその布石にほかならない。それゆえ言論人や出版人にはすべからくこの事件を思い出す必然性がある。私たちの血肉である言論・出版の自由は、この事件に象徴される言論・出版の不自由の歴史的記憶と表裏一体のものだからだ。言いかえれば、自由が脅かされるとき、それはつねに浮上するテーマであり、日本近代史上未曽有の不自由の経験を深く知ることこそが、自由を守る行動の歴史的起点となるのである。
しかし、言論や出版の世界でそうした当事者意識はまだまだ希薄だ。そして私たちは相乗的な危機に見舞われ続けている。当事者意識の希薄化と、経済的危機の深刻化がそれだ。
先だっての神戸元町の老舗・海文堂書店の閉店に象徴されるように、日本列島各地で読書界を支え、出版文化を維持してきた伝統ある書店が次々と姿を消している。インターネット書店の台頭や電子メディアの伸長などによって、出版をめぐる従来の環境は変容と後退を強いられ続けてすでに久しい。だが、問題は現象面だけにとどまらない。読書によって培われてきた言論と知的公共性、出版文化を支えてきた精神の根幹が腐りつつあるという深奥の問題こそが、出版文化を蝕み、ますます空洞化させている。いまは横浜事件のような強権による言論弾圧の前に、当事者である言論人や出版人の萎縮と自己規制、無関心の拡大が最大の“検閲”と化して、言論・出版の自由にローラーをかけている。私はここ十数年、書評紙の片隅に身を置きながらそんな実感をもっている。
出版の苦境はさまざまに分析できるとしても、一つ挙げれば書き手と読者が出版の知的公共性、すなわち本を媒介に形成されてきた「読書共同体」から離れてしまい、不自由の歴史に対する感度や洞察力を鈍らせ、自由に対する当事者意識を希薄化させている現実がある。それが出版苦境の根本原因の一つであろう。
読書共同体とは、『図書新聞』を創業した田所太郎の言葉である。哲学者の戸坂潤のジャーナリズム論、文明批評としての書評論に学んだ田所は、著者、出版社、印刷所、製本所、書店、読者など、本に関わる人びとが創り上げるコミュニティを読書共同体と呼び、人びとを結ぶ「一條の橋となるために」(創刊のことば)、敗戦後に書評紙を創刊した。田所は横浜事件の発端の一つとなった『日本読書新聞』の出身であり、戸坂は治安維持法で囚われ敗戦直前に獄死している。自由な読書共同体を目指す架け橋の橋脚は、不自由の経験を土台としていたのだ。
書評とはいわば、本というメディアを手がかりに、さらなるコミュニケーションを生み出し、読書のコミュニティをよりゆたかなものにしていくことを第一義とする言論である。だがいま、その言論が見る見るやせ細っている。これは前述した、出版文化を支える精神の根腐れと同根の問題ではないか。私たちはどうしてもメディアの変容に目を奪われがちだが、問題はコミュニティの解体とともに深まっている。そこで書き手と問題意識やテーマを共有することができなければ、出版人は孤立化して良書を読書界に送り出すことができなくなる。読者が育たず、ますます出版から離れていけば、業としての出版も立ち行かなくなる。
この悪循環は「知識人」の消滅とともに加速化している。今日、知識人という言葉は死語と化して久しいが、実はそれは出版の苦境と無縁でないどころか、死命を制する問題なのである。なぜなら知識人の消滅は、出版社にとっては書き手ならびに読者の消滅を意味するからだ。出版と知識人の関係は読書共同体の紐帯であり、その活性化こそが知的公共性をゆたかにしていく血流だった。それゆえ知識人が消えれば、出版も衰退し、読者も消えてしまう。ここでいう知識人とは当然、学者や専門家と同義ではない。みずからの所属や立場を越えて普遍的なものの見方を提示でき、またその見方を獲得しようと努める知性の持ち主のことである。読書によって自由なコミュニティの当事者意識を育む知性といってもいい。
3・11以後の状況を鑑みれば、知識人が原子力ムラに連なる研究者や言論人の対極的存在であることは、もはや火を見るより明らかであろう。一世紀前にマックス・ウェーバーが予見した「精神なき専門人」の跋扈は、理系と文系を問わず今日のアカデミズムを厚く覆っている。ではジャーナリズムはどうか。マスメディアのあり方を見れば、やはりウェーバーが予見した「心情なき享楽人」の坩堝である。読書共同体の一翼を担ってきたはずの両者は、その共同体の衰退と崩壊を食い止め、より高めていく存在たり得てはいない。
私は「同時代史叢書」の一冊として刊行予定の『出版と知識人——読書共同体の現代史』(仮題)で、出版と知識人をテーマに戦後の読書共同体の歩みを跡づけ、こうした現状に一石を投じたいと考えている。読書共同体をゆたかなものにした精神文化のありかを今日に伝え、横浜事件を起点とした言論・出版の自由を書評紙の現場から実践的に描くことが、特定秘密保護法や改憲に対する私なりの抵抗である。
[よねだ こうじ/図書新聞スタッフライター]