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  • PR誌『評論』193号:三行半研究余滴8 三くだり半と人別送り

三行半研究余滴8 三くだり半と人別送り

高木 侃

前回までと同様、今回の離縁状にも関連文書が付属している。それは「人別送り」である。当時庶民離婚は夫婦間(タテマエ上夫から妻へ)で離縁状が授受されることによって成立した。離婚の法律要件としてはこれで十分なのであるが、さらに報告的手続きとして、人別送りの送付・返戻があって、手続きは完了したのである。
しかも「人別送り」は、村相互・旦那寺相互間で二重に行われたので、広く村内に公示する役割を担ったから、ときに人別送りの送付・返戻によって離縁状の授受を行わない地域もあった。例えば、佐渡国雑太郡・美濃国安八郡・伊予国温泉郡などである。
さて、離縁状の写真と釈文(解読文)を掲げる。大きさはタテ22.4、ヨコ20.5センチである。
  差出申離縁一札之事
一其方儀、不埒之儀有之ニ付、
離縁仕候処実正也、然ル上は向後
何方え縁付候共、此方ニて少も
構無之候、為後日一札依如件
        秋間村
文久三亥年    金 五 郎∪ 
  八月日
       た せどの
本文の読み下しはつぎの通り。
その方儀、不埒の儀これあるにつき、離縁仕りところ実正なり、しかる上は、何方へ縁付候とも、この方にて少しもこれなく候、後日のため一札よってくだんのごとし
三行半に認められ、夫から妻本人に交付された典型的な離縁状であるが、離婚理由が「不埒之儀有之」と、密通(他男との浮気)をうかがわせる。
離縁状には「人別送り返し一札之事」と題する送りが付属している。末尾の差出人・名宛人・日付の部分のみ写真を掲げた。本文には秋間村(現群馬県安中市)の金五郎が先年上室田村(現同県高崎市)新五兵衛の娘「たせ」を妻に貰い受けたが、この度離縁になったので親元に返す。ついては当村の「宗門人別帳」から除いたので、そちらの帳面に書き加えてほしい旨の一札で、夫方名主から妻方名主へ差出したもの、日付は元治2(1865)年3月である。
一般的には、離縁状の授受とほぼ同時に 「送り」 もなされた。たとえば、嘉永3 (1850) 年12月下野国安蘇郡山越村(現栃木県佐野市) 「やす」 が、聟養子伊三郎と離縁した例では、聟からは離縁状が渡され、妻方からは離縁趣意金七両と聟伊三郎の 「由緒寺送り」 が差し出され、離縁状と同じ日付の請書が、 聟方親類惣代と組合惣代から出された。明らかに離縁状と送りの手続きは同時になされている。
ところが、本事例では、離縁状の日付は文久3(1863)年8月とあり、「送り」まで約1年半が経過している。この時間の経過は何を意味するのであろうか。夫が離縁状を交付しても、直ちに離婚となってしまうのではなく親類や5人組などが入って復縁(当時は「帰縁」といった)の尽力がなされ、それが実らず、最終的に離婚が決定して「送り」の送付・返戻がなされたものと考えられる。
このような復縁の努力はすでに離婚と決まり、夫から離縁状を渡し、持参荷物まで妻方に返した後ですらなされ、実際に復縁した豪農の妻の事例もあった。「金五郎・たせ」夫婦の場合も決着までにその努力がなされたのかも知れない。
とはいえ、人別帳の作成は毎年春3月に行われ、その時点での状況が記載されたにすぎない。つまりは静態的な把握であった。金五郎・たせ夫婦は離婚後双方とも再婚せず(新たな送りの必要がなく)、しかも半年後の届け出を怠り、翌々年にあらためて人別送りの手続きを取っただけという、単なる手続きの怠慢なのかもしれない。
[たかぎ ただし/太田市立縁切寺満徳寺資料館名誉館長・比較家族史学会会長]