• TOP
  • PR誌『評論』
  • PR誌『評論』193号:『武藤山治──日本的経営の祖』を公刊して

『武藤山治──日本的経営の祖』を公刊して

山本 長次

武藤山治(1867~1934)にとっての最大のテーマは、資本主義経済の存続と、生活弱者の救済であった。彼は、第一次世界大戦後の社会主義の台頭に脅威を感じた。そして現在も、企業の政治に対する依存や、国内外における格差社会の問題等のために、資本主義経済は存続の危機に瀕している。
武藤は「独立自尊」を標榜する自由主義者であった。自由民権運動に関係した父親の影響を受け、慶應義塾では直接福澤諭吉に学び、アメリカ留学も経験した。そして、三井銀行における勤務を経て鐘淵紡績株式会社に入社(1894年)するが、そこでも、福澤諭吉の精神の第一の継承者とされる中上川彦次郎の影響を受けた。やがて鐘紡は、武藤の主導のもとで、三井や他の紡績企業との関係においても、独立した地位を築いた。特に同業他社との関係では、やはり自由主義にもとづき、待遇を良くすることで優秀な従業員を集め、生産性を向上させた。そして、対企業や政府との間の独立した地位が、鐘紡の競争力の源泉となった。
さらに自由主義者であった武藤は、財界と政官界との関係においても独立した関係を築こうとし、政治革新のために政党・実業同志会を結成(1923年)した。そこでは、政治に依存する政商的企業家を、財界の健全な活動を阻み、政治腐敗の温床にもなるとして最も嫌い、他方、「小さな政府」を具現化するために行財政改革案も示した。
武藤は、政治と経済を切り離そうとしたが、この発想は国際関係においても同様であった。例えば、鐘紡の主導のもと、南米拓殖株式会社を設立(1928年)したが、そこではブラジルへの移民事業を民間主体で行い、対中関係では、鐘紡も在華紡を展開する一方、国策としての満鉄の事業に異を唱えた。歴史的に、国策と同調したアジアでの経済活動や移民事業は、第二次世界大戦を経て断絶した。
鐘紡を経営した武藤は、今日、「日本的経営の祖」と称せられている。同社の「中興の祖」であった彼は、再建のために「一人一業主義」を貫き、他社の役職は兼任せず、一社の経営のみに専心した。彼は従業員を優遇することでモティベーションを高め、生産性の向上を果たし、長期雇用の慣習も現出させた。近代日本の民間企業の経営において、共済組合制度の確立、意思疎通制度としての社内報の刊行や注意箱の設置などは、鐘紡が初であった。特に共済組合では、医療や扶助等にかかわる制度が実施されることで、従業員やその家族生活が保障された。
そして武藤は、鐘紡の経営基盤が確立し、現在の会長職に当たる社長に就任したのち、実業同志会を結成するとともに、衆議院議員(1924~32年)として活躍した。そのような議員活動における彼の顕著な功績は、現在の生活保護法につながる救護法の制定(1929年)であった。鐘紡では、従業員の生活上の保障を企業自らが行ったが、救護法はいわば、そのような生活者の救済の政治的具現であった。彼はすでに財界活動において、競争的な企業活動と、生活者の救済を両立させていた。
鐘紡及び政界活動を引退したのちの彼は、政治教育の場として現在も大阪を拠点として活動を続ける國民會館の設立(1933年)を構想する中、恩師の福澤諭吉がおこした新聞社であった時事新報社の再建を引受け(1932年)、評論活動にもあたった。そして彼は、政官財界の癒着問題として、帝人事件に発展する番町会問題の告発を展開させる中、暗殺事件に遭遇した。
本書の副題として、武藤を「日本的経営の祖」と位置づけたが、ここでは、日本の企業社会の課題の提示においても、彼の主張が歴史的に原点となったという意味を含んでいる。自ら主体性と責任を持ち、政府に依存しない企業活動、競争と従業員の生活保障の両立などがそれである。さらに経営的発想に立った行財政改革や、政府の経済活動に対する関与の制限といった主張は、財界が独立した立場から主導しなければならない。そして対外的にも、経済活動と政治問題を切り離すこと等、経営リーダーとしてのキャリアを持った彼の示唆は、永続企業や永続国家であり続けるために大変有益である。
[やまもと ちょうじ/佐賀大学経済学部准教授]