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シリーズ 激動のインド』全5巻の刊行にあたって

水島 司

インドへの頻繁な訪問者であっても、近年のインドの目を見張る変化に驚くであろう。デリー空港に降り立ったとたん、度肝を抜くような巨大な空港施設だけではなく、係員の応対の仕方、商品の種類の多さ、道路の整備、数え切れないような車の種類、地下鉄や高架鉄道の延伸、人々がもつ携帯やパソコン等々、ついこの間までは想像もつかなかったような変化が空間のそこかしこに渦巻いている。
『激動のインド』と題する本シリーズは、何よりも、このような激動の実態を描くとともに、その激しい動きの変化の底辺に、どのような質的な変化が埋め込まれているかを解明したいという思いから生まれたものである。
つい先頃まで、インドと言えば貧困や飢餓の代名詞であった。職を容易に見つけることのできない最高位カーストのバラモン学生が、低カースト出身者に教育機会や雇用機会を優先的に与える留保制(リザーベーション)の拡大に反対し、焼身自殺を図っていた。1960年代後半から始まる安定した地下水を前提とした集約的農業──「緑の革命」と呼ばれる──の進展による井戸掘削の激増が、地下水の枯渇、あるいは地下の塩分の表出による塩害を引き起こし、そのうちインド農業は深刻な問題に直面すると警告されていた。低賃金農業労働者の大量の存在は、その低い賃金のゆえに農業の機械化の普及を阻むとも言われていた。ヒンドゥー的成長率と揶揄された低い経済成長率の原因は、カースト制に代表される非近代的な身分制度にあるとも説明されていた。しかし、これらの解釈のいったいいくつが現在のインドを形容しうるのだろう。今では、インドは世界を牽引する経済成長を遂げる国であり、バラモン達は国内外のIT産業を引っ張り、農業生産の増大はインドを主要な農産物輸出国へと変身させ、農村にはトラクターどころかハーヴェスターさえ見かける。カースト制さえも、経済発展の原動力であるかのように言われ、21世紀はインドの世紀であるとの声さえ聞く。その一方で、借金苦の農民の自殺が相次ぎ、耕作放棄地が増え、地下水位は低下し続け、洪水の被害は大きく、製造業のシェアも正規労働者のシェアも伸びず、賃金格差は想像を絶するほど大きいままである。いったい、何が本当で何が間違いなのか、何が変わっているのか、それとも何も変わっていないのか。
本シリーズは、このような問題意識を共有し、長くインド研究に携わってきた第一線の研究者をいくつもの研究機関から糾合し、日本学術振興会科学研究費の助成を受けて2009年から開始されたプロジェクトの成果の一つである。
本シリーズの各巻は、激動の状況をさまざまな局面から描く『変動のゆくえ』、人口・耕地動向から環境全体の動向を扱う『環境と開発』、もっとも注目すべき動きを示している経済を対象とする『経済成長のダイナミズム』、さまざまな地域的偏差を見せながら激しい変化を見せる農村部を扱った『農業と農村』、生き方、世界観、暮らし、生活の場など、ひと自身とひとを取り巻く生活のありかたの変化を探る『暮らしの変化と社会変動』という大きな領域毎に、それぞれ一つの巻を構成している。全五巻が互いに連携しつつ、インドの変化の本質を剔出しようという構成となっていることを理解して頂ければ幸いである。
本シリーズは、歴史学、経済学、農学、人類学、社会学をそれぞれ専門領域とする研究者の共同研究により、現在のインドが経験している変化の全体像を描こうとしているのであるが、そのために以下のような手法をとっている。第一に、時間的には200年以上前の時期から今後の見通しまでを論じ、個人や村から出発してインドやさらには世界までを対象とするというように、現在の変化をマクロ(長期・広域)とミクロ(短期・事例)の両視点で交差させるという方法である。特に重要視したのは、大きな流れを具体的な事例を用いながら明らかにしようとした点である。本シリーズでは、多くの統計情報が使われているが、単純な統計分析に終わらせないように努めたつもりである。第二に、近年多くの研究者が取り入れ始めているGIS(地理情報システム)を分析の基盤に採用している。近年、インドでは、さまざまな統計がデジタル情報として提供されるようになった。それらを、単に統計的に分析するだけではなく、空間情報へと転換し、個々の空間の特徴を解明しようと、数千枚の五万分の一縮尺の地形図を収集し、インド全域のGISベース・マップを作成した。それにより、センサスをはじめとする各種統計資料の内容を空間情報化することができた。地域間格差の拡大が大きな問題となっている今日のインドの状況を描くにも、GISの利用は必要不可欠な手法であると考えている。そして、それらの手法を駆使するための農業生産、農家経営、工業生産、雇用、人口動向、移動、教育、家族、健康、消費などの、人々の生活全般にわたる多くの資料・統計類を収集した。また、衛星画像や都市図、気候情報なども収集し、気候、土地利用、水資源、大気・土壌汚染、都市環境などの分析を進めた。加えて、農村や工場などでの現地調査を実施し、資料・統計の持つ意味の解釈を深めた。
以上のような研究により、インド全域の動向と地域的特色についての分析を進め、ここにその成果を問うわけであるが、我々の目的がどの程度達成されたかは、読者の厳しい批判を待つしかない。本シリーズが、「激動のインド」の実態とその基底にある変化の動向を正確にとらえ、21世紀の世界の方向をとらえるための礎石となれば幸いである。
[みずしま つかさ/東京大学教授]