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多喜二と二十世──『松岡二十世とその時代』脱稿する

松岡 將

20世紀の劈頭、1901年2月生まれ故に、祖父がそのことに因んで「二十世」とされた父の名前は、字そのものは易しいのだが、ひと様に最初からルビなしで正しく読んでもらうのは、まず難しかったようだ。人の名前は時として、その人の人生に思いがけない種々の小劇と、そしてそのこと故の波及効果をもたらすことがあり得るのだが、多喜二とわが父松岡二十世との関係などは、このような名前による小劇とその波及効果の典型であった。
終戦直後の旧満洲国の首都新京で、十歳の時に父と別れた私は、その後シベリアで長らく消息不明のままだった父の生涯については、少年時代、無関心で、ほとんど何も知るところではなかった。その彼が、多少なりとも社会的に認知されていた存在であったことを始めて悟り、彼に興味を持つに至ったのは、私が十八歳時、東大駒場の寮生になりたての頃、寮の先輩から、「小林多喜二の『轉形期の人々』の中に出てきているのは、もしかして君の父君ではないか」、と尋ねられたときだった。実際、『轉形期の人々』にあたってみると、そこには、「1924年の夏」、当時まだ未開の北海道商工業の中心地で、労働運動揺籃期の小樽に、「東京から……やつて來た」、「スッキリした顔立ち」の、「學生の名前は、「松山幡也」といふ、めずらしい名前だつた」とあり、松山幡也がめずらしい名前かどうかは別として、母から聞かされ、そのことだけは知っていたエンゲルスの『ドイツ農民戰爭』の翻訳のこととか、前後の関係などからして、この学生が父であることを確信したのだった。
それから半世紀ほどが経って、父の名前の由来だった「二十世紀」も過去となり、杜甫が古来稀と言った年令に近づきつつあるころ、私は、何よりも現世的苦労のかけ通しだった母の供養のために、シベリアで死んでいってほとんどが埋もれたままとなっていた父二十世の生涯の「探索・発掘」を思い立ち、残る人生、怠惰心に鞭打って、あてどなき旅路へと出発したのだった。
数少ない父の足跡を追っての、北海道、満洲、シベリアなどへの現地旅行や図書館暮らしに過ぎゆくある日、古い文書類の中にふと見出したのが、1927年3月16日付の、紛れもない親父直筆の、情報第一号と題するガリ版刷りのビラだった。そこに彼の特徴的な字で記述されている主張や事柄は、磯野富良野農場小作争議の、まさにその時点にあって小樽で戦われていた最終局面そのものであった。そしてそれはまた、多喜二の『不在地主』の最終部分、「十二 手を握り合つて」以下において、随所に、そのビラと全く同一の文章があらわれる、いわば二十世が多喜二に乗り移って書かせたと思わせるが如きものだった。
『不在地主』が書かれそして発表された昭和4(1929)年秋にあっては、その最終部分、小樽での「戰ひ」の、これまで知られざる主人公であった父は、すでに北海道3・15事件により治安維持法違反として網走監獄で服役中であり、北海道農民運動は、わずか2年前の富良野争議や月形村争議当時のかがやかしい高揚時から一転して、展望なき壊滅状態にあった。そのような暗闇つのる日々だったからこそ、多喜二は、一条の光明を若き農村青年健ちやに托して、彼が恋人の願いをふりきり、「固い決心で旭川に出て行き」、「そして「農民組合」で働き出した」として、この物語を閉じていた。
その後、多喜二は、ますます強まる弾圧のなか、昭和五年に上京し、他方二十世は、同7年初頭まで網走監獄に在監、釈放後も再び旭川で北海道農民運動に専心し、二人が直接接する機会はなかったのだが、昭和八年、多喜二がその死の前に東京で書いていた未完の『轉形期の人々』には、十年前の北海道、小樽、そしてめずらしい名前の父二十世への多喜二の切ないノスタルジーが込められているように思える。
『松岡二十世とその時代』は、十年近くにわたる親父探索・発掘の旅路の結果である。それはまた、私にとって、時代の子の如くであった父のみならず、多喜二など、激動の昭和という時代を真摯に生きそして死んでいった父の周囲の人たちになり代わって、波乱の昭和現代史を生きてみる試みでもあった。この旅路を終えるにあたって、その方向付けへの貴重な鍵を残しておいてくれた多喜二に感謝し、改めてその冥福を祈りつつ、我が筆を擱きたい。
松岡 將(まつおか すすむ)
1935年北海道樺戸郡月形村生まれ。41年渡満。大連・新京で幼少時代を過ごし、46年仙台へ引揚げ。東京大学を卒業後農林省入省。86年退官。