科学哲学から見た実験経済学

川越 敏司

かつては「経済学では実験は不可能」と言われていた。しかし、実験経済学および行動経済学の先駆的研究者、ヴァーノン・スミスとダニエル・カーネマンが2002年にノーベル経済学賞を受賞する前後から、経済学者の間ではこうした実験的手法の有用性が認められており、現在では主要な学術雑誌に実験論文が掲載されない号はないほどである。欧米の主要な大学には経済実験を実施するためのコンピュータ実験室があり、実験経済学の専門学会では毎回数百の研究発表がある。そればかりではない。こうした経済実験の成果の一部は、世界的に権威のある科学雑誌NatureやScienceの誌面さえ飾っているのだ。
こうした世界的な趨勢にかんがみた時、行動経済学会が設立されているものの、我が国ではいまだに実験研究は一部少数の研究者が取り組んでいるに過ぎないという悲しい現状がある。こうした普及の立ち遅れの一つの原因は、経済学における実験的アプローチがあまり知られていないことであると考え、筆者はこれまでも、実験経済学に関する教科書や研究書を執筆・翻訳してきた(例えば、川越敏司『実験経済学』東京大学出版会、2007年、フリードマン=サンダー著『実験経済学の原理と方法』同文舘出版、1999年)。
このたび訳出した『科学哲学から見た実験経済学』は、科学哲学を専門とする著者が、経済学で実験を行うことの意味やその特質、そしてその限界を見極めようとしたものである。経済学における実験的アプローチの重要な方法論上の問題が、基礎から詳しく説明されている。
初めの章では、実験の実施例や実験計画法の基礎概念が丁寧に述べられているので、読者は経済実験に対する確かなイメージを持つことができるだろう。こうした導入部を経て、第一部で提示される主要な問題はデュエム=クワイン問題である。それは、科学上の仮説はそれ単体では決して検証されえないという問題である。
つまり、実験室で仮説を検証しようとする際、実験装置や被験者のサンプルが適切であるといった、検証したい主要な仮説に付随する補助仮説も同時に検討に付されざるを得ないため、実験の「失敗」がただちに主要仮説の否定になるのではなく、補助仮説のどれかに誤りがあった(実験装置に故障があった、など)とされる可能性がいつも残ってしまうということである。
この問題は、ある仮説を検証するような「決定的実験」は構築されえないという否定的な含意を伴って紹介されることが多い。だが、著者によれば、むしろこれは、消去法に従い、実験結果に影響しうる要因を絞り込んでいくことで、仮説が真である可能性をより強固にしていくべきだという建設的な示唆として受け止めることが可能なのである。
第二部で論じられる主要な問題は、外部的妥当性の問題である。この問題は、精密な実験室実験で確証された科学上の仮説が、外部世界に拡張可能であるかどうかという問題である。
実験室実験では、実験者が操作したいと願う要因以外の条件は一定にして実験を実施する。そうすることにより、問題の要因が実験結果に対して有意な影響を与えているか否かを検証するのである。だが、こうした実験統制は、実験室という外部から隔離された人工的な環境でない限り実現することが難しい。最終的にはフィールドにある経済に対して有効な仮説を提示しなければならない経済学のような経験科学にとって、この問題は深刻である。
この問題に対して最終的に著者が採用するのは、類推によるアプローチである。これは、実験室内の環境がたとえ現実世界に比べていかに人工的なものであろうとも、外部世界と何らかの類似性がある限りは、実験室で成り立つ法則性が外部世界でも成り立つ可能性を否定できないはずだという考えである。
本書で論じられる問題は、科学哲学に造詣の深い読者にとっては常識的なことなのかもしれないが、こうして実験経済学の実践に沿った形で主要論点が開示されている点で、科学哲学を学ぼうとする経済学者はもちろんのこと、特に社会科学の哲学に関心のある哲学者にとっても有意義なものだと考えられる。願わくは、本書によって実験研究に関心を持つ経済学者が増えてほしいものである。
 [かわごえ としじ/公立はこだて未来大学教授]