山本弘文先生の思い出

老川 慶喜

2012年8月29日、法政大学名誉教授山本弘文先生が89歳の生涯を静かに閉じられた。不覚にも私は先生のご逝去を、のちになって交通史学会(交通史研究会の後身)の編集委員から先生の業績をまとめてくれないかと依頼されたときに知った。交通史学会とも疎遠になり、先生のご健康を気にはしていたが、この何年かはお会いすることもなかった。
先生と初めてお会いしたのは、立教大学大学院経済学研究科修士課程の2年生に進学したときであった。そのころ立教大学と法政大学を含む都内のいくつかの私立大学の経済学・経営学系の大学院で単位互換制度が始まり、その制度にもとづいて法政大学社会科学研究科の山本ゼミに参加させていただいたのである(なお、単位互換制度は今も続いている)。先生が大著『維新期の街道と輸送』(法政大学出版局、1972年)を出版された直後であった。
ただ、先生のお名前はすでに存じ上げていた。当時、法政大学卒業後に立教大学大学院に入学してくる大学院生が何人かおられ、先生の噂を聞いていたからである。それは、先生は戦後シベリア抑留という苦難を経験しているのでとても厳しく、大学紛争時に学生部長をしていたときには、いわゆる全共闘系の学生とまったく妥協することなく正面から対決してきたというものであった。しかしお会いしてみると、先生は実に温厚で噂が根も葉もないことのように思われた。ただし温厚さのなかにも厳しさがあり、噂をなるほどと思うようになるのにそれほど時間はかからなかった。
博士課程に進学してから私は高等学校の教員になったが、先生のゼミには出させていただいた。勤務を終えて午後七時からの山本ゼミに出席するのが、当時の私にとっては最大の楽しみであった。そのときだけはアカデミックな雰囲気に浸ることができ、学問をしているような気になれたからである。
とはいえ、大学院のゼミで交通史を取り上げてくれることはほとんどなかった。先生は東京大学経済学部に在学中から薩摩藩の藩政改革史の研究に取り組み、1952年に法政大学の助手に採用されると「薩摩藩天保改革の前提」(『経済志林』第22巻第四号)、「薩摩藩の天保改革」(同、第24巻第3号)の二本の論文を執筆されている。また、金沢での旧制高校時代から沖縄史への関心をもっておられ、1957年には「近世沖縄史の諸問題」(『歴史評論』第83号)を執筆されている。先生は交通史研究者である前に、薩摩藩政史や沖縄・琉球史の研究者であったのである。なお、先生の沖縄・琉球史研究は1980年代に入ってから加速し、1999年に『南島経済史の研究』(法政大学出版局)をまとめられた。
それでも毎週山本ゼミに参加するのが楽しみであった。立教大学では思想史や経済学史に関心をもっている方が多く、先生のように実証的な経済史研究を行っている方がいなかったので、私の研究テーマとは直接関係がなくても学ぶところが多かったからである。また九時頃にゼミが終わると、先生は毎週必ず市ヶ谷駅近くの居酒屋に誘ってくれた。そのときにお酒の勢いも借りて、先生にさまざまな疑問や質問を投げかけた。先生はにこやかな笑みを浮かべながら、どんな質問にも的確なヒントを与えてくれた。それが楽しみで、冬のどんなに寒い日でも毎週京浜東北線の赤羽駅で「あんまん」を頬張って、七時から始まる山本先生のゼミに出かけた。帰宅すると12時を回っていることも少なくなかったが、少しも苦にならず、翌日は六時に起きて高等学校に出かけた。
ある日、同じように市ヶ谷駅近くの居酒屋で山本先生とお酒を飲んでいると、先生が今までの研究を学位論文にまとめてはどうかとおっしゃってくれた。今の大学院生とは違って学位をとるなどということはまったく考えていなかったのでびっくりしたが、先生のお勧めにしたがって立教大学経済学研究科に学位を請求し経済学博士の学位を取得することができた。もちろん、先生も学位審査に立ち会ってくれた。学位を取得するとまもなくある大学から声がかかり、私は長年勤務した高等学校を退職して北関東にある私立大学の教壇に立つことになった。振り返ってみると、社会経済史学会での報告や論文の投稿を勧めてくれたのも山本先生であった。山本先生と出会わなければ、私はおそらく今日まで学問を続けてこられなかったと思っている。
山本先生は社会経済史学会や土地制度史学会(現・政治経済学・経済史学会)などで活躍されていたが、鉄道史学会の立ち上げにも協力してくださった。先生は東京大学経済学部の安藤良雄先生のゼミの出身で、安藤先生からの信頼も厚かった。法政大学で鉄道史学会の創立総会を開催したときにも安藤先生に声をかけてくださり、安藤先生が出席してくれたおかげで懇親会が大いに盛り上がった。
そういえば山本先生が交通史研究を手がけるようになったのも、安藤先生を中心にした日本通運の社史の執筆がきっかけであったように思う。日通の社史を執筆されてから、先生は1963年に「明治前期の馬車輸送」(『地方史研究』第13巻第2・3号)を発表し、以後「明治初年における宿駅制度の改廃(1)(2)(3)」(『経済志林』第33巻第1号、第35巻第3号、第38巻第1号)、「陸羽街道馬車会社について」(同、第38巻第2号)などを立て続けに執筆され、これらの論文が前掲『維新期の街道と輸送』に結実したのである。
先生の交通史研究で特筆しなければならないのは、やはり国連大学プロジェクト「日本の経験」での一連の研究であろう。原田勝正、増田廣實、青木栄一らの諸氏との共同研究を組織され、その成果を1982年度の社会経済史学会全国大会で共通論題「工業化と輸送」として発表され、さらに1986年には『交通・運輸の発達と技術革新』(東京大学出版会)を編著として出版された。こうして先生は、近世交通史と比べるとやや遅れがちであった近代交通史の研究を牽引され、その水準を一挙に高めたのである。
残念だったのは、その後先生が法政大学の常務理事などの要職につかれ、学会などでお目にかかる機会が減ってしまったことである。先生は法政大学での役職を終えると、一九九七年からは児玉幸多先生のあとをついで交通史研究会の第二代会長に就任されて同会の発展に貢献された。やや個人的な回想になって恐縮であるが、山本弘文先生に心からの感謝を申し上げて筆をおくことにしたい。
[おいかわ よしのぶ/立教大学教授]