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『神保町の窓から』刊行に寄せて・ 出版は胆力である!

鷲尾 賢也

長く編集者をやってきたので、私も、出版人の回想や記録などには、人一倍、関心をもっている。
そういう類のもので、刊行の多いのは、いうまでもなく文芸関係である。太宰治が、小林秀雄が、川端康成が、谷崎潤一郎がといった具合に、その作家といかに付き合い、あるいはいかに書かせたかという苦労ばなし、自慢ばなしである。簡単にいえば、大作家の身辺雑記や挿話だ。しかし、創作の秘密に迫るところも少なくなく、のぞき心もあって、つい手にしてしまう(B級C級作家についても、多く書き残されている。いかに近現代の出版史が文芸偏重であったこともうかがえる)。
しかし、時々、読み終わって考えてこんでしまう。売れたのか・売れなかったのかといったような出版につきものの話題がほとんど出てこないからだ。あるいはどんな原稿を持ち込まれたとか、断ったとか、印税や原稿料がどうなったなどという裏側・裏話も紹介されることはあまりない。
そういったことから逃れられない商売が出版である。そのほか、在庫・廃棄・誤植・装丁造本・宣伝、書評・受賞......、本来、編集という仕事は雑多なものばかりだ。にもかかわらず、それらもほとんど明かされない。文芸編集者はそういうことに、関心をもたないのだろうか。いつも、首をひねる。
『神保町の窓から』(栗原哲也著、影書房)は、それと真逆。出版にまつわる日々の失敗・感動・皮肉・愚痴・叱咤・抗議・怒り・悔恨・回顧・哀悼などの入り混じった本音集である。成功談ではなく、ひとつひとつが「身につまされる」ことばかり。なるほどと思ったり、ニヤッと笑ったり、そうそうと、うなずいたり、少し考えがちがうなと感じたり、同病相哀れむような?妙な共感を覚えたり、複雑な気持ちのうごめきを抑えきれない。例えば、こんな箇所。
  小とは言え、出版社の看板を掲げていると、まだ見ぬ執筆者・研究者から出版について相談を受けることは多い。殊に春になると多い。世の中から屁もひっかけられなくなったらおしまいだと思っているから、この種の相談には殆ど乗っている。多様な人がやってくる。その中でも一番多いのは、既に小社の著者になっている方からの紹介だ。
  この場合は「何某君を紹介する」旨の連絡が入っていて、おおむねその筋書きが分かっているので比較的話はしやすい......はずなのだが、出版されることが当然のような顔でくる人もいる。当方は出版社だから、出版するのは当たり前のことなのだが、おしつけがましい物言いをされるとムッとくることもある。
よく分かる。じつによく分かる。ムッとした顔が浮かぶ。つづいて、ちがうタイプの紹介がつづく。何の断りなしにひとりで乗り込んできて、「売れる」ことを強調する。今まで印刷したことのないような初版部数を提案する著者。たしかにいる、いる。私の場合も多かった。また、仕事をしている最中に、「あの子の研究はすばらしい」と耳打ちする著者。お断りすれば、その著者との関係が悪くなるのではないかと、心配し、つい承諾してしまうことがある。したたかなそのテクニック!
その微妙なちがい。最初の場合は、「持ち込み」という。わりと知られた言葉である。二番目の、単騎で乗り込むようなことは「押し込み」、耳打ちするのを「連れ込み」という。
「持ち込み」「押し込み」「連れ込み」。という術語(隠語?)の差異に、笑いつつ、なるほどと感心した人も多いだろう。こういう苦労が出版なのである。 とは言いながら、「学術書は人の縁で企画刊行されることが多いので、一概に敬遠できないのです」と、告白する。こういうところは、とても正直。この率直さこそ、多くの執筆者から信用されるゆえんだろう。
辛口でありながら、出版という仕事をこよなく愛しんでいることがよく分かる。もちろん、仕事をほこりに思っている。それが伝わってくる。同時に、譲らない頑固さ。それは誰にもひけをとらないほどの強烈さである。
よく酒を飲む。そして、よくぶつかり、仲直りし、また対立するらしい。酒を通じて生まれる数多の友情。いまの若者には想像を絶する熱さだ。
栗原さんは、私より3歳上。ほぼ同世代といってもいいだろう。だから、時代の空気の感じ方はかなり似通っている。ただ、彼は8月14日(つまり敗戦前日)、伊勢崎の実家が空襲で燃え上がるのを見ている。玉音放送も聞いている。そういう体験はこちらにはない。しかし、戦後の焼け跡はたくさん残っていた。
かなりの比率で、私の同級生は母子家庭であった。栗原さんも戦後についての思いは深い。ときおり、感慨が呟きのようにもれる。「爺さんの世代も、親父の世代も戦争に行った。『満洲』の真っ赤な夕日や徐州の麦畑の話はときどき聞いた。そんなとき、爺さん、親父を侵略者と思ったことはなかった。それでも身内の戦争とのかかわりは、今もわれわれに深い翳を落としている」
栗原さんの出版の志は、こういう背景から生まれている。決して声高には語らないが、胸に深く、重く秘められている。
大手、中小に関わらず、出版はいま冬の旅、いや極寒のなかにいる。明けない夜はないというが、それすら危うくなっているのが現実である。しかし、著者は動じない。「なんとかなるはずだ」。いや、「なんとかしてしてしまう」のだ。そもそも、出版というものはそんなものだと思っていることは、文章の端々から浮かんでくる。これはまさに胆力とでもいうべき存在からなのだろう。
つい、「スゲイナー」なんて、無意識にこちらが呟いてしまう。
おそらく、ときおり登場する未來社の故西谷能雄さんや、本書の版元である影書房の松本昌次さんという見事な先例(厳しさを耐えぬく)を見てきたからであろう。どこか、見切っている?しかし、意味のない楽観主義ではない。
想像するに、結構、したたかに動いているにちがいない。なにせ「日本経済評論社」である。経済を熟知しているはずだ。そして、経済は人間のやるもの。とことん信用できる人間を、俺はたくさん持っているぞという自信が、勁さになっているのだろう。
独特の栗原節の文章と、時折洩れる上州生まれらしい義理人情たっぷりの挿話も魅力的だった。
迫力ある一冊を読ませてもらった。
[わしお けんや/評論家]