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  • PR誌『評論』189号:三行半研究余滴4 妻父の差し出した三くだり半──離縁状か返り一札か

三行半研究余滴4 妻父の差し出した三くだり半──離縁状か返り一札か

高木 侃

江戸時代に庶民の離婚には離縁状が必要とされた。これは夫から妻に授受されたもので、これなくして再婚したときは、刑罰が科された。離縁状なく再婚した妻は、髪を剃り親元に帰された。だから女には必ず離縁状が必要だったことはよく知られている。その反面、夫が離縁状を渡さず後妻を迎えると、「所払」の刑罰が科されたことは忘れられがちである。
この離縁状の授受にあたっては、妻側にのみ離婚の確証としての離縁状が残るが、妻に三くだり半をたたきつけた夫には、離婚した確証は残らない。もし妻が離縁状を受け取っていないと主張したとき、夫には渡したことの挙証責任があり、立証できなければ刑罰が科された。したがって、妻に離縁状を渡して、妻側から領収書(これを「離縁状返り一札」という)をもらうことが用意周到であった。つまり、離縁状は妻にとっても夫にとっても必要だったのである。
さて、これまでに妻方発行の離縁状がなかったかといえば、数通散見されているが、いずれも聟養子の縁組の例である。聟養子とは、養子縁組と婚姻が同時に契約されるもので、婚姻関係よりも養親子関係が優先されたので、養父(妻の父)が聟を離縁すれば、付随して聟は妻とも離婚したのである。その場合でも原則は夫である聟が離縁状を出すものとされたが、聟養子の場合は、養父(妻)方からの離縁状はありえたのである。
写真(左頁)を掲げたが、これは嫁入り婚で妻方(その父)から差し出した唯一の離縁状である。大きさはタテ27.6、ヨコ19.7センチで、三行と二文字だが、これも三くだり半といってよかろう。釈文(解読文)を左に記したが、一行の文字数が多いので、行末に」印を施し、追込みとした。
    相渡申離縁状之事
一私娘其元え縁付置申候所、今度実家
え」立戻申候、然上ハ後嫁之義ハ何
方より入置」被成候共、娘はま古(故)
障等少も無御座候、」如件
       猿供養寺村
 嘉永二年酉六月   武右衛門
         忰 文 平(爪印
猿供養寺村は越後国頚城郡内の村で、現在の新潟県上越市板倉区である。
読み下し文はこうなる。
私娘、そこ元へ縁づけ置き申し候ところ、今度実家へ立戻り申し候、然るうえは後嫁の義は、何方より入置きなられ候とも、娘はま故障等少しもござなく候、くだんのごとし。
夫に向かってどこから後嫁(後添え)をもらっても娘(当方)にさしつかえございません、というわけで明白に妻方からの離縁状で、祖父武右衛門忰文平(はま父)が、差出人である。
ところで、2009年に新潟県十日町市で妻本人の書いた離縁状が発見されて、マスコミを賑わした。妻ふじは聟養子を迎えたが、彼の病気を理由に離婚した。妻からの離婚請求だったものとみえ、100両の慰謝料を支払ったが、ふじは質屋稼業を営む女主人であった。聟からもほぼ同文の離縁状が出されたが、これの方が「離縁状返り一札」といえよう。同一県内から見出された上の文平差出しの離縁状もあるいは返り一札だった可能性もある。新潟県内からは離縁状を二枚重ねて割印を押したものもあり、一通が離縁状、他は返り一札のつもりだったと考えられ、この地域では離縁状を双方が同時に授受する慣行があったのか、今後の調査がたのしみである。
なお、この離縁状のもう一つの特徴は、爪印である。爪印と書かれているが実は指印で、五指を全部押そうとして墨を付けたが、三指は押捺されているのがはっきり見て取れる。指印の例も本離縁状のみで珍しい。
[たかぎ ただし/日本近世離婚法史]