歴史と現在の往還 3 いわての詩

山本 唯人

3月11日、帰れなくなったわたしたちは、街をさまよい、浅草雷門の区民館で一夜を過ごした。たまたまそこに吹き寄せられた人々が、和室のTV画面にくぎ付けになり、東北のまちや村が、家ごと流されるのを見た。やがて、原発に異常が起きているというニュースが伝わってきた。建物が倒壊しているわけではない東京では、それを、「震災」であると認識するまでしばらく時間がかかった。しかし、間もなく、それが東北から関東までを巻き込む歴史的な大震災であることが明らかになった。
20代の前半に、阪神大震災の救援に訪れ、自分を揺り動かされた体験を持つわたしたちの世代にとって、この震災体験は重い。内閣官房震災ボランティア連携室、まるごとアーカイブス......わたしたちが手探りで語り出してきたはずのボキャブラリーが、国家の側から、瞬時に社会を覆っていく光景に、戸惑わざるを得ない。わたしたちの言葉と現在の立ち位置が、今回の震災では問われたと思った。
それから、わたしは、一橋大学の町村敬志研究室に設立された研究グループ(「社会と基盤」研究会)に参加し、岩手県大船渡を中心に、津波被災地の支援団体の調査に関わっている。
2012年2月、震災から1周年を目前にひかえ、岩手県内陸の北上を訪れた。北上に拠点を置き、三陸の救援に携わった共生ユニオンいわてを訪ねることがその目的である。
共生ユニオンいわては、1985年に結成された北上合同労組を前身とする。2000年、その活動を継承し、全国一般労働組合・共生ユニオンいわてが設立された。共生ユニオンは4月16日、遠野市内の自治会館に独自のボランティア・センターを開設し、遠野まごころネットと連携しながら、三陸沿岸に人を送った。一般的な社会福祉協議会につながる団体ではなく、地域に拠点をおく個人加盟のユニオンが、被災地の救援に力を尽くしている事実に関心を引かれた。
積雪の街を事務所まで歩くと、書記長の山下正彦さんと副委員長の高橋祐介さんが迎えてくれた。その際、組合の名前と並ぶ「岩手県詩人クラブ」の看板が目を引いた。由来をたずねると、これは、ユニオンとは直接関係ないが、もともと北上の詩の会に入っていた山下さんが全県の事務局を継承し、ここに場所を置いているとのことだった。その時、関心があるならと、年一回発行を続けている最新号の詩集『いわての詩2011』もいただいた。
ページをめくると、会長の八重樫哲さんの序に続けて、30編以上もの作品がさざめきあうように並んでいる。山下さんの作品「やぶつばき」は、陸前高田の友人に向けて、この一年間、大阪の整体師や一関の元看護婦、眼科の医師、東京の人々が遠野のセンターを訪れ、腐ったサンマとヘドロをかきだし、おにぎりを届けて過ごしたことを、やがて被災地に咲くであろう、やぶつばきの花への思いに託して語った作品である。わたしはこの作品を読んだとき、震災の夜、TV画面の前で失語したままになっていた自分のなかに、言葉の水脈が染みとおってくるのを感じた。それは、日の丸を背に「絆」を連呼するマスメディアはもちろんのこと、東京中心の研究者や評論家の言葉とも明らかに異質な次元から放たれた、震災の経験の記録だ。この詩集のなかに、今年1月に出版された『自分の生を編む』の著者・小原麗子さんの作品もある。それは、同書のあとがきに触れられている、行方不明になった友人の存在を、3年生になる親戚の子どもとの、何気ないかのような会話のなかに書き留めた作品だ。小原さんは、高田敏子によるテキストの言葉を引いて、詩とはその人の中に残り甦ってくる思い出、体験の意味を探ることであるという。『いわての詩』は、まさに、震災1年を経て、岩手の詩人たちがとりだそうとした、震災体験の意味をめぐる探索の記録といえるだろう。
その後、北上市の日本現代詩歌文学館学芸員・豊泉豪さんの教示を受け、岩手県詩人クラブの文献として、40周年記念事業の記録『岩手の詩展』(1994年)、50周年に出された大部の記録『岩手の詩』(2005年)の存在を知ることができた。1950年、佐伯郁郎を中心にクラブが誕生して以来、岩手の詩人たちが何を詩って来たのか、興味は尽きない。
思い出に目を凝らすこと──しかし、津波に洗われ、浸水したままとなった大地は、そもそも「甦り」とは何かを、根源的にわたしたちに問いかける。まだ当分の間、「いわての詩」とともに、三陸を歩いていこうと思う。
 [やまもと ただひと/(公財)政治経済研究所主任研究員・社会学]