コミュニタリアンの描く国の形

石見 尚

脱原発の市民デモに続いて、今度は竹島、尖閣諸島の領有問題が起きた。二つは別個の事件ではあるが、その根底には国民経済の基礎であるエネルギー資源の問題がある。20世紀はエネルギーの独占的確保をいわゆる「国益」として主張する時代であった。そして二つの世界大戦をはじめ多数の領土紛争や内戦をくりかえしてきた。21世紀になっても、それが続いている。国家と競争的市場経済の結合した体制が続く限り、事件は何度も起きる。グローバル化した世界で、資源問題を国際的に解決できる国の形を考えてみたい。
私は考えるヒントとして協同組合コミュニティの連合体としての国家を提起したい。これはきざな言い方をすれば、コミュニタリアン国家論というべきものであるが、それはまだ歴史に姿を現したことがない。そこで検討のきっかけになるのが、A・F・レイドローの協同組合セクター論と協同組合コミュニティ論の背後にあるロバート・オウエン以来の協同組合思想家たちの言説である。しかし困ったことに、協同組合思想家たちには、国家論が明示できていないのである。むしろ国家論がないのが「ユートピア社会主義者」の特徴であって、「空想的社会主義」と酷評される所以である。そこで登場するのが、コミュニタリアン国家論である。
そもそも協同組合コミュニティとは何か。レイドローは都市のなかに多様な協同組合の複合体である地域センターをつくり、それを中心として荒廃したコミュニティを再生させるという。それは協同組合(ポテト)とコミュニティ(トマト)のハイブリッドであるポマトのようなものなのか。私はそう考えない。コミュニティは公権力をもつが、協同組合にはそれがない。協同組合自体は国家を形成する性質がない。だがコミュニティの再生にあたっては触媒の役割をはたすことができる。とくに現代コミュニティの回復には、古代の氏族共同体とちがって、個人の自由と連合の理論が必要になる。協同組合の連合の論理は、オットー・ギールケ(1841~1921)の着目したように、国家統合の理論を導く契機になる。これはゲノッセンシャフトという協同組合のシステム以外には見当たらない。
それはともかくとして、脱原発には、経済構造を中央集権的国家主導の体制から地域自給型体制に変え、また所有・経営・利用の三位一体による運営主体を設立する必要がある。それが電力協同組合であって、発電と送電にかかわる卸事業と消費利用の小売事業を行う協同組合である。アメリカやオーストラリア、フィリピンの農村や途上国など世界には実例が数多くある。有名な経営学者、ピーター・ドラッカーがアメリカの電力協同組合の理事をしていたことは、多くの人の知るところである。電力協同組合は国際協同組合同盟(ICA)の協同組合原則によって運営している。その原則のうちには「協同組合間の国内的、国際的連携」と「コミュニティへの関与」がある。実際、かれらの電力協同組合は、コミュニティのいろいろな事業起こしのコンサルをしている。
日本でも、農業、林業、水産業、生協、信用、共済、中小商工業などの各種協同組合、さらに協同労働の協同組合が参加し、公的機関を巻き込んで、一念発起、10電力各社の圏域に新電力協同組合を作ることを提案したい。農業の六次産業化にみられるように、エネルギーの地域自給体制をつくる過程で、それを集約する政治行政の自治体制が形成されるのである。コミュニタリアン国家は空想ではなく、協同組合コミュニティによる国づくりの一歩となる。そしてコミュニティを基礎とする多元主義的「共和国」に発展する。それは既存の議会制民主主義とは異なるアソシエーション国家となる(『都市に村をつくる』第二章のポール・ハーストの説参照)。これが私の協同組合コミュニティ論である。
 [いわみ たかし/日本ルネッサンス研究所代表]