神保町の窓から(抄)

▼高等学校のときの同級生・高木侃さんが、わが社のすぐ裏にある専修大学法学部で定年になった。これで近所の友だちがまた一人減った。定年記念の本作りをお手伝いした(『三くだり半の世界とその周縁』6500円)。そのせいで3月20日、定年さよならパーティーに招ばれ、顔をだした。そしたら何っ、田舎から同級生が十人近くも来ていた。会の後には同窓会になるな、と直感した。案の定二次会は蕎麦屋「侘助」の買い切り。主賓そっちのけで50年の空白を一気に埋めた。みんな昔の少年少女に還ってしまい、担任の先生のことや誰それがどうした、孫はどうした等となった。誰も法律のことなど勉強してきたわけではないから、_木の業績など話題にしない。許せ。お神酒も手伝って少し羽目をはずしかかった。昔少女だった婦人など「あのときわたしのこと思っていたでしょ」と誰かに絡んでいた。いまごろよく言うよ、と思った。
 高木さんは縁切状「三くだり半」の研究に生涯を費やした法制史の専門家。上州太田市立縁切寺満徳寺資料館の館長も長くつとめ、研究のためとは言うが、三くだり半の蒐集も趣味で、古書店や資料館から蒐集してきた三くだり半は千通を軽く超すという。われわれがもっている三くだり半のイメージは、夫が気に入らない嫁は一方的に離縁され、妻は泣く泣く実家に帰る「追い出し離婚」の図だが、_木さんはさまざまな三くだり半を分析し、嫁が亭主を捨てる場合もかな高木さんの論説を読んで「女三界に家なし、の忍従の生活を強いられていたという思いこみがくつがえされ、快哉を叫んだものだ。女を受動的な被害者と見るのではなく、能動的な主体として見る見方が登場してきた」とフェミニズム運動にも影響を与えたと指摘する。高木さんは縁切状で博士となったが、その研究は続けるのだろう。それでも私や本屋とは縁は切らずに、深いえにしでつながっていてほしい。
▼大震災・原発テロから一年が過ぎた。福島の被災地では、村が立ち入り禁止区域と立ち入りOK地域とに区分けされ、地域が分断されそうになっていると聞く。絆だの連帯だのと言っておきながらこのやり方はないだろう。農道一本でこちらとあちらが住んでよい、住んではいけないとなったら、暮らしというものはなりたたない。人はまさに繋がって生活しているのだ。全く人間の暮らしの成り立ちを無視している。ニュースを聞きながら怒りというか行政の無策・横暴に腹が立ってきた。
 そんな矢先、校倉書房の編集部の長老山田晃弘さんがメッセージを送ってきた。紹介する。
 「地域が分断され、さらに共同体が破壊されて「絆」が断たれた福島の発言には「絆」の重みと同時に〈怒〉があった。これは〈自然大災害〉の悲劇と安全神話に騙された〈想定外〉の人災の体験の差によるものか。これからの歴史の記録には、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故が〈絆〉と〈怒〉二つの言葉で未来永劫に語られ遺される」「まったなしに季節は駆け巡ってくる。津波の残土処理、仮設住宅問題、インフラ整備など、生活基盤の再生が焦眉の問題である。そのような中で、公然と一国の総理大臣が内に外に消費税の値上げをぶち上げている。いつの間にか、連日の報道で〈社会保障と税の一体改革〉が一人歩きし、耳障りな言葉が誘導している。大震災も〈だし〉にされているようである。不愉快な言動でもある」
 山田さんは千葉の地域で平和運動や歴史の掘り起こしの活動に力を注いでいる地域の活動家。団地の集会所で、老人やお母さんたちと語り合い、子どもたちに話しかける人である。絆も怒もここから始まる。
▼20年以上も「間もなく」とか「そのうち」と決意ばかりを漏らしてきた松尾章一先生の手になる『服部之總傳』の原稿ができてきた。400字で5千枚。仰天する分量だ。どんな本にすればよいか。思案の最中である。明治維新史、マニュファクチュア論、帝国主義論その他宗教論、文学論にしてもいま服部を話題にしている研究者は極少数である。戦前、『日本資本主義発達史講座』を中心に、維新の革命性について労農派と激しい論争をしてきた服部も現代歴史学の中では、論外か無視という扱いになっている。どうして、こうなったのか。果たしてそれでいいのだろうか。戦後歴史学が60年代後半から70年代に入って「現代歴史学」へ移行を開始し、「現在は戦後歴史学からネオ戦後歴史学への混沌かつ壮大な過渡期にある」(中村政則)という時代にある。中村は「いま歴史学は危機にある」とも言う。いま何故服部を取り出さねばならないのか。歴史はどのような思想のうえに語り、書かれねばならないのか。「パパ、どうして歴史をお勉強しなければならないの? 教えて──」マルク・ブロックの問いに答えたいと思う。 (吟)