詩も作り田も作る

小原 麗子

「詩も作り田も作る」、これが人の生き方の理想なのではないか、と思いつづけてきました。が、育った環境は違います。
「詩を作るより田を作れ」です。詩など書いていても、きょうの「まんま」(ご飯)にありつけません。農作業こそが第一なのです。
母はわたしに、鍬の持ち方を教えます。土にどの角度で鍬を下ろせばいいかと、もちろん角度とは言いません。確かに母の言う通りにすると、土のこなれがいいのです。
詩を「文化」に、田(農業)を「経済」に置き換えてみます。が、農業は経済の一環でありながら、はみ出します。抑えきれません。
「食物は人類の親だもの」と、わたしは思い、食べ物があって人は明日への命をつなぐ、「詩を作るより田を作れ」なのだ。それでもと、また思い返します。
「嫁ごに来た時は、まさか、こうして一冊の本を残すなど考えながった」と、玉山ユキさん(七九歳)は言います。嫁ぎ先は大きい農家、新聞など読んでいられません。
それでも、「草取り人生だけでは終わりたくない」と、言います。田畑の作物を育てるとは、まず草取りです。家事、子育て、はては姑さんの介護も待っていました。この状況に味方をしたのは、機械化貧乏といわれながらも田畑に入った農機具です。家事は電化製品によって軽減されました。寿命も延び、孫も育ててまだある人生です。
わたしは、1956(昭和31)年、青年会で文集作りをしていました。そのつづきのように、1983(昭和58)年から、4つのグループの農家のおがさんたちと集まっては、書き話し合っています。曾祖母さんになった人も何人かいます。
書く行為とは、地域に合せて暮らす自分、家族に合わせて暮らす自分を取り戻す方法です。
また、生き方を問う方法です。
グループの一つ、「春・一番の会」の三田喜代さん(78歳)のお母さんは、戦後、魚の刺身を食べませんでした。出征した長男は輸送船もろとも海に沈み戦死しました。近くの魚屋のマグロの腹から戦闘帽や時計が出たそうだと聞いたのです。
ユキさんの秀雄兄は、編上げの靴を磨き、花巻農学校に通いました。ユキさんにとって自慢の兄です。出征の果に知ったのは「自決」です。長兄は秀雄兄の行路を聞き歩き、それらの資料を「永久保存」と書き保管します。ユキさんは、兄と同じ年齢になった孫に秀雄兄のことを話そうと思っています。
この地にはたくさんの白鳥が渡って来ます。
都鳥アエ子さん(87歳)の夫は、シベリアに抑留され亡くなりました。白鳥は夫の魂の化身か、「抱いてやりたい」「どんな所にあの人の屍が横たわっているか」、北へ帰るなら「庭の椿の花を持って行ってくれ」と、見送ります。
昆野カネオさん(76歳)は、三十年前長男を自衛隊に出しました。自衛隊が「軍隊」だとは思っていません。すすめる人は「国を守るのが仕事、人を助けるのが仕事だ」と、言いました。「消防士と同じような感覚で何か災難があれば人を助けるのが仕事だと思い、出してやった」と。今度の災害(東日本大震災)でも出動しました。
「自衛隊の『軍』としての属性を徐々に縮小」「非軍事の多機能的な災害救援部隊に転換すべきではないだろうか」という論(水島朝穂早稲田大学教授、2011年5月7日、『朝日新聞』)もあります。これはカネオさんの気持ちに応えるものです。
「年金をためておいてくださいね」と、わたしは笑って言いました。形見は着物ではなく詩集です。「詩も作り田も作る」おばあさんたちの詩集は現在、7冊目、続行中です。
自分の詩集はそっちのけです。
今度、拙著『自分の生を編む』を、編集および解説してくださった大門正克さんは、次のように書かれています。
「小原さんが地域の多くの女性たちの詩集や本の出版を支えたように、今度は私が小原さんの仕事を受け継いで、多くの人につなぎたいと思ったからである」と。これ以上のことはありません。
それで、本を受け取った人は、「おめでとう」ではなく、「うれしいね」と、言ってくれるのでしょう。
[おばら れいこ/麗ら舎読書会主催]