神保町の窓から(抄)

▼1984年(昭和23)の夏、埼玉県北部利根川右岸に位置する本庄町に展開された暴力追放・町政刷新運動は人々に「本庄事件」と名づけられ、心ある「年表」には誇らしく記載されている。最近では「本庄事件」というと1996年に起きた保険金殺人事件を想起される方がほとんどだが、それではない。
 1984年といえば、敗戦からの復興も緒についたばかりであり、占領軍は「日本民主化」に腐心していた時期である。ここでお伝えしようとする「本庄事件」は、次のようにして始まった。本庄は繭(まゆ)の集散地・生糸の町である。隣接する群馬県のブランド「伊勢崎銘仙」の名で、京都をはじめ全国に出荷されていた。全国生産量の三分の一を生産した時期もあった。当時は統制経済下であった。繊維製品も例外ではない。厳しく取り締まられていた。この統制違反、つまり闇取引の発覚と、それをもみ消そうとする町会議員や暴力団ボスが動きだした。警察を接待しろ、飲ませれば事は大きくできまい、こういう風土である。織物業者が警察や公安委員、町長まで招んでの宴会。新聞記者も招ばれていた。朝日新聞の新米記者もその宴会の場にいた。それが彼ら闇グループにとってケチのつきはじめであった。うさんくささに気づいた記者は「検事、警察官招宴に疑惑」という見出しで記事を書いた。それに不快を感じた町会議員(組の親分)が、公衆の前で記者を殴った。暴力と町政の癒着に感づいていた朝日新聞は、自社の社員が暴力をうけたことをきっかけにして、暴力追放キャンペーンを開始した。町の読書会に集っていた青年たちもそれに加勢し、町中が大騒ぎになった。過程を省くが、結局、町民大会を開くところまで発展し、町民の要求は半ば満たされていく。後で、GHQは「果敢に闘った」と朝日を評価し、他社には「勇敢な闘いを挑まなかったことは不思議で奇怪である」とクギをさした。そんな数ヶ月の事件である。戦後のすぐの時期に、埼玉の田舎町で起こった戦後史には特記すべき事柄だが、暴力追放・町政民主化の住民運動の血潮は町の財産として収納されているのだろうか。ペンは本当に剣よりもつよかったのだろうか。いつか、赤城の山容を仰ぎながら、本庄の町を歩き、町人の話も聞いてみたい。そして朝日新聞浦和支局の面々でつくった『ペン偽らず—本庄事件』(昭24)の復刊を果たし、現在の青年たちと話し合ってみたいとも思う。
▼昨秋、恐る恐るお送りした非売本『私どもはかくありき—日本経済評論社のあとかた』は、抗議めいたお言葉もなく、沢山の方からお便りをいただきました。何もおっしゃって下さらない方も、怒ってはいないと推測しています。中でも、最も多くの方が注目してくださったのが、巻末につけた「刊行書目一覧」でした。図書館関係者からの声です。ページ数や定価は他社のものにもありますが、初版部数、編集担当者、印刷・製本、あるいはカバーデザイナーの名前まで記されていることを「評価」してくださる方が多かったことです。「初めて見た」という方もおられましたし、「ここまで書いて、大丈夫なのか」と心配してくれた人もいました。
 そうかも知れません。初版部数などは、ある種、企業秘密として考えられてきたし、担当編集者を明かすことは、これまた業績評価か個人情報漏洩とお叱りを受けるかも知れません。公表前には多少の呻吟はありました。なにしろ、今は在籍していない担当者も大勢いるのですから。
 また、本文に関しては、10年目に社が危機的状況に陥ったとき、どうやってはいあがってきたかが興味をもたれたようです。銀行とのやりとりとか、本の叩き売りとか、倉庫の火事とか。ひとは、やはり他人のピンチは楽しいことの一つらしい。「むちゃくちゃ面白い」と云った同業もこの部分でした。勝手にたのしんで下さい。経営が平らに戻らず、倒産していく過程が知りたかったと書いてきた人もいます。これは無理。会社があったから書けたのです。別の人は「本を押し売りみたいに、売っていたのですね」という感想。そんなことはありません。本は押して売れますか。そして、何よりもこの記録の意図を正確に読みとってくれた人がいました。40周年でもない38年あたりで社の記録をまとめるということは、「今日われ生きてあり」と云いたかったのだナ、と。そうです。われわれは、これからは、ヒトとして棲息するのではなく、人間として活きよう、という内外への呼びかけでもあったのです。お目汚ししました。感想を寄せてくださったみなさん、ありがとうございました。
▼秩父困民党の総理・田代栄助の墓を守る秩父の古刹金仙寺の宝物を収録した写真集『金仙寺のほとけさまたち』(非売品)をつくる手伝いをした。仕事の進行中、寺をたずね、「律儀なれど任侠者」(高橋哲雄)の栄助の墓に合掌した。天朝さまに逆らった栄助と、その罪人を葬ったこの寺の任侠を思いながら、ちょっとだけ、百姓たちを味方にしない明治という国家の形成過程に首を傾げたのでした。