『鉄道史人物事典』の編集と刊行

鈴木 勇一郎

1983年に設立された鉄道史学会は、2003年に迎える創立20周年を記念して『鉄道史人物事典』の刊行を企画した。本学会はすでに10周年記念事業として『鉄道史文献目録〈私鉄社史・人物史論〉』(日本経済評論社)を刊行し、社史や伝記を中心に鉄道史に関わった人物に関する文献を多数採録した。とはいえ、これはあくまでも文献の目録であり、それ自体を読んで人物の事歴が簡便に分かるという性格のものではなかった。
鉄道史に関わる人物事典的なものとしては、日本交通協会が鉄道開通100周年を迎えた1972年に刊行した『鉄道先人録』(日本停車場(株)出版事業部)があり、有益な情報を提供してくれる。しかし、すでに刊行後相当な年月を経ているほか、国鉄関係者中心に偏っている上に、依拠した文献や史料も明示されないなど、今日の視点からすると問題は少なくなかった。
そこで、鉄道史学会としては『鉄道史文献目録』やその後の研究成果を踏まえた新たな日本の鉄道人に関する事典の編纂を企図したのである。こうした意図を踏まえ、編纂委員会では・『鉄道先人録』が国鉄中心であったのに対して、本事典は私鉄や地方鉄道に関わった人物も広く採録する。・近年の研究動向を踏まえると共に、依拠した史料や文献についても明示する。・戦後の人物も対象とするが、編纂時点で存命の人物は対象としない。という基本方針を立てた。
といっても、具体的にどのようにするのかについては、当初全く手探りであった。まず、採録すべき人物の候補を立てるために、『鉄道先人録』と『鉄道史文献目録』の他、各都道府県や市町村の自治体史の鉄道に関わる部分から、候補となる人物を抜き出し、その重要度に応じてA・B・Cの三段階に分けるとともに、そこから不要な人物や執筆が困難そうな人物を落していくことから作業が始まった。ここで「重要度」と一言で片づけてしまったが、実は政治経済の分野など、その人物が果たしたと一般に認識されている歴史的な役割と、鉄道史学上において果たした役割の間に落差がある人物も少なくなかった。こうした場合は、できるだけ鉄道に即した形で、その重要度を評価していったが、意外に位置づけが難しい人物も多く、選定に際して苦慮した場面もあった。とりわけ著名な明治の政治家や実業家にそうした例が少なくなかった。こうしてこの時点で約1000名の採録候補者がリストアップされていったのである。
本事典では鉄道史学会の総力を結集するという意味から、広く会員から執筆者を募り、分担して原稿を執筆することになった。幸いにして自ら進んで執筆を引き受ける会員が多数出てきたので、当初の段階で多くの人物の執筆者が決まっていったのである。
ところが、この段階で執筆者の決まらなかった人物もかなりの数にのぼった。実はやすやすと執筆者が決まった人物は、比較的メジャーな人物が多かったのに対して、ここで残った人物は、地域の鉄道の敷設に尽力したとか、技術の改良に力を尽くしたなどといった、決して全国的に名を知られているわけではない人物が多かったのである。事典全体からみると彼らは決して、多数を占めているわけではないが、史料や先行研究の乏しさからその執筆は困難であることが少なくなかった。しかし、こうしたこれまで埋もれてきた人物をとり上げることが本事典の特色であり、その採録にはできるだけの努力をすることになったのである。編纂委員会では、こうした人物を中心に執筆できる方を探していったが、最後まで執筆者が決まらず、結局採録できずに終わった人物が少なからず出たことには、忸怩たる思いである。
それに加えて、私自身の怠惰さもあり、その後の編纂作業には予想以上に時間を要することになってしまい、多くの方にご迷惑をおかけした。編纂作業が長引いた結果、編纂委員や執筆者で、途中で体調を崩されたり、亡くなる方も少なからず出たことは本当に残念なことであった。とりわけ原田勝正氏は原稿をお送りいただいた直後に、訃報に接したので、鉄道史に関わる分野では、恐らくこの事典の原稿が氏の絶筆となったのではないかと思う。
作業が予想以上に遅れ、多くの関係者にご迷惑をおかけしたが、ようやく刊行の目途が立ってきた。こうした人物事典に関わった多くの人々の思いにも応えるためにも、今後末永く利用される事典にするべく最後の編集作業を進めているところである。
 [すずき ゆういちろう/立教大学立教学院史資料センター学術調査員]