編集を終えて──『回想 小林昇』

服部 正治

2011年の間にと思っていた『回想 小林昇』(服部正治・竹本洋編)を年内に公刊できた。昨年逝去された小林昇先生がこよなく愛した福島での大惨事があったから、この思いはそれだけ強かった。執筆者各位のご協力に感謝したい。執筆者は編者を含めて29人にのぼる。諸般の事情で寄稿いただけなかった方々を含めると30余人の皆さんとの出版に関わるやり取りを振り返って、小林先生の経済学史研究を含めた生涯の活動の多様さとその充実とを、そしてその多様さと充実とが厳しい自己規律のうえに成り立っていたことを改めて感じている。『回想 小林昇』は、第・部では小林経済学史を各執筆者自身の研究との関係で評価検討して、研究上の論点を提起していただいた。今後の経済学史研究の進展にとっていくつもの貴重な問題提起がなされたと思っている。第・部では、経済学史研究者に加えて、短歌・評論・こけし蒐集など多彩な分野での先生の活動をつながりのあった方々に回顧していただいた。そこから浮かび上がってくるのは、松本昌次さんが本書で書かれたように「“文体”のある生涯」であった。第二次大戦中のヴェトナムでの一兵士としての原体験を踏まえ、自らの人格と思想を「文体」に結晶させた生涯を、執筆者からはそれぞれに描いていただいた。
小林先生は30年以上前に福島第一原発運転に反対し、実験段階にある原発の運転開始のレールを敷く経済成長至上主義を批判された。資源と環境と人類の平等という視点から「シヴィル・マキシマム」を唱えた先生は、成長至上主義の蔓延の中で忘れ去られつつある、こけしという東北の民芸文化に温かい目を注ぎ続けた。また、戦地で、帰還後は経済学史という専門の学問研究の裏面で、日々の生活のなかで抱き続けた思いを「カタルシス」として短歌の形で表現された。『暦世──小林昇全歌集』(不識書院、2006年)には1829首が収められている。
一方、小林先生は、こうした日々の生活の中での心情を経済学史という研究に持ち込むことを禁欲され続けた。一つの例がジェイムズ・ステュアート『経済の原理』(1767年)の理論的性格についての先生の位置付けの変化に表れている。それは、最後の重商主義者による貨幣的経済理論→原始蓄積の一般理論→小商品生産の一般理論と変化し、『原理』を「最初の経済学体系」と位置付けるに至った。原始蓄積の一般理論という規定はアダム・スミス『国富論』(1776年)との段階的相違を、小商品生産の一般理論という規定は『国富論』との連続面を強調するものである。一見するとこの両規定は矛盾するように思われるかもしれないが、一八世紀経済学成立期の状況はなお研究の開拓の余地を残す複雑な構造にあるというべきであろう。そしてこの後二者の規定は、18世紀イギリス経済学史上の膨大な文献の読破のうえに、そして『原理』全編を繰り返し、筋道の立った著作として読んだ結果として、既成の定式化を借りることなくなされている点を最大の特徴とする。しかも先生は、『国富論』の陰で一旦は忘却されたかに見える『原理』が、『国富論』後も、イギリスならびに諸国(特に建国期アメリカ)において根強く受け継がれていることを文献的に立証することによって、古典派経済学との抽象的対立という理解を超えた、『原理』の貨幣的経済理論としての存在意義を浮き上がらせた。『原理』についての以前の規定が後のそれに包み込まれる形で活きているのである。
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『回想 小林昇』編集を終えて心残りがあった。一つは、小林先生との交流があった、グラスゴウ大学アンドリュー・スキナーさんからの寄稿が得られなかったことである。そのスキナーさんも今年亡くなった。二つは、小林先生の長女松本旬子さんの「父と母の思い出」という文章にある「父の手が、私の頭に置かれている」一枚の写真が事情で見つからず、収載できなかったことである。それがようやく見つかって、松本さんから送られてきた。その写真を追加して、「編集を終えて」を閉じておきたい。
[はっとり まさはる/立教大学教授]