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福島自由民権と門奈茂次郎9 社会復帰

西川 純子

出獄後の加波山事件同志の動向は様々であったが、政治に関わりを持ち続けたのは鯉沼九八郎だけであった。鯉沼は栃木県で県会議員となり、「加波山将軍」と呼ばれて重きをなしたという(加藤鎮雄『加波山事件』三一書房、1971)。河野広躰は明治29(1896)年に星亨に随伴してアメリカに行き、その後ヨーロッパを巡って2年後に帰国している。その後は殖民や移民の事業に従事したという。玉水嘉一は茨城県下館に剣道塾を創設して郷党の子弟の教育に当った。小林篤太郎は愛知県で東海日日新聞社を創立して社長となったが、後にキリスト教に入信して牧師に転じている(供野外吉『獄窓の自由民者たち』)。興味深いことに、茂次郎を含めて同志の面々はいずれも長命であった。玉水などは太平洋戦争を経験した後に91歳の天寿を全うしている。
茂次郎は出獄したとき32歳であった。間もなく、彼は会津旧藩士の娘春日ミツと結婚するが、二男一女を設けた後に何の理由あってかミツと離別している。再婚した関きちとの間では一男一女を得たが、きちとも離別、61歳のときに青木ミツを三度目の妻として入籍し、これは最後まで続いた。
茂次郎は様々な事業を興しては成功と失敗を繰り返した。肥料会社、養鶏業、猪苗代湖の観光業、オパール鉱山業など、武士の商法とはよくいったもので、成功することはあっても決して長続きしなかった。父の話によると、景気のよいときの祖父は得意満面、子供たちにもたっぷりと贅沢を味わわせてくれたという。しかし、逆の場合には赤貧洗うがごとく、その格差の激しさが家庭生活を不安定にする原因ともなった。長男の茂が結核で亡くなったのはどん底生活の最中であった。貧困の中でたくましく育ったのが次男の正、つまり私の父である。
父は福島中学から秋田鉱山専門学校に進んだ。企業から奨学金を受けて学費と父親への仕送りに当てたという。奨学金を支給してくれた企業は北海道炭礦汽船会社で、卒業後はここに就職することが条件であった。北海道炭礦汽船会社の前身は北海道炭礦鉄道会社である。北海道炭礦鉄道会社は明治23年、国から幌内炭鉱と幌内鉄道の払い下げを受けると同時に空知集治監の囚人労働も引き継いだ。集治監で囚人の使役が廃止されたのは4年後だから、茂次郎が空知にいる間は北海道炭礦鉄道による囚人の使役が続いていたことになる。奇しき因縁といおうか。しかし、父の赴任先は幌内ではなく夕張であった。この夕張で茂次郎は晩年の3年間を過ごし、79歳で生涯を終えた。

名誉の回復
加波山事件で生き残った人々が終世の懸案としたのは、無念な死を遂げた同志にいかに報いるかということであった。河野が空知集治監跡に原利八の墓を立てたのも、玉水が加波山の麓に平尾八十吉の碑を建てたのもその志の現れであろう。小林が宗教家となったのもこれと関係があるかも知れない。茂次郎は「東京挙兵乃企図」と題する手記をまとめることによって、加波山事件にまつわる誤解を解き、同志の名誉を回復しようとした。
「東京挙兵乃企図」は小稿でも度々引用しているが、加波山事件の当事者が書いた貴重な文献である。茂次郎がこれを書いたのは1928年、67歳の時であった。「我国に於ける自由党員の行動が過激なりしか、藩閥政府の挙措が圧倒にすぎたるかは恰かも彼の旧露国に於ける虚無党対帝政露政府の関係の如く、其批判は、後世史家の審討に待つべきである」という一文にはじまるこの手記を、茂次郎は玉水嘉一の弟である玉水常治宛てに、一通の手紙とともに送付した。「是迄自由民権史の記述を為す者種々誤謬を伝え居り往年自由党志士の企画に対してその真相を補足し得ざる為め吾々当事者は勿論旧来の同志知己及自由党として迷惑を蒙る場合も有之に依り別封草稿差上候......」(1928年4月27日)。
茂次郎が玉水常治を選んだのは、玉水が石川諒一とともに『民権自由党史』を出版しようとしていたことを伝え聞いたからである。石川は『東陲民権史』を書いた関戸覚蔵の薫陶を受けて、加波山事件に関心を寄せていた。彼は1938年に急死するが、身辺に『加波激擧録』の草稿と資料が残された。その資料のうちに茂次郎の手記を発見したのが子息の石川猶興である。文筆家であった猶興は資料が埋もれることを恐れて、1972年に父親や関戸覚蔵を回想して書いた自著『利根川民権紀行』(新人物往来社、1981年に崙書房から再刊)の中に、資料編として茂次郎の手記を収録した。
[にしかわ じゅんこ/獨協大学名誉教授]