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新聞記事にみる開化期の芸能興行の諸相 ──『明治国家の芸能政策と地域社会』の刊行に寄せて

橋本 今祐

本書執筆の際さておいた、開化期の芸能興行に関連する新聞記事から二、三のテーマを追ってみよう。
(1) 明治5年9月 「遊女裸体ニテ手踊」
まず、開化期に禁制となった裸体習俗からみていく。当時、政府は「外国人の眼」を過大に意識してか、これまでの裸体習俗を国辱と捉え、これを未開・野蛮と〈迷蒙〉扱いし、権力の意思で整序しようとした。東京府は明治4年11月、早々に裸体と肌ぬぎの禁止を布達。翌5年11月には違式_圭違条例を施行し、「裸体又は袒裼(片肌ぬぎ)」を「醜体」として禁じていった。
このような開化による旧弊一洗策の全国的な高まりの中にあって「外賓接遇」にかまけてか、長崎に上陸したロシア親王を「遊女裸体ニテ手踊」興行をもって饗応(『広島新聞』第17号、倉田喜弘『芸能の文明開化』平凡社、1999年)したという記事である。明治五年九月のことであった。
表向きの裸体習俗の厳しい取締りとは裏腹に、国賓の迎接でのわが国の屈辱的な接遇態度は、やがて政府高官の夜会から鹿鳴館時代の狂態へと発展していく。こうした文明開化の二重性を福島県令安場保和は、「上ニ文明ノ名アリテ下ニ迷惑ノ難アリ、都下開化ノ業盛ンニシテ僻陬鞭策ニ不堪ノ患アリ」と批判し、日本橋一里四方の皮相な開化現象を慨嘆している。この二重性ゆえに、文明開化は上からの「啓蒙的専制主義」と酷評されるのである。その意味で「遊女裸体ニテ手踊」は、開化の矛盾を鋭くついた報道であった。
(2) 明治11年5月 「国家に益なき遊芸」
次に、『郵便報知新聞』(明治11年5月27日付)の記事をみてみよう。「今般、外国人を雇入れ曲馬の興行を為す儀に付き、大阪府より外務省に照会ありしに、曲馬興行等は諸学科又は工業等の教師と径庭ありて、国家に益なき遊芸なれば、居留地外にての興行の儀は多く差許さざる筋に之ある(下略)」(前掲書『芸能の文明開化』)。
この記事でも明らかなように、「国家に益なき遊芸」とは、「外国人の居留地外での芸能興行」に対する外務省の一見解である。ところが、近年この外務省の「国家に益なき遊芸」を開化期における明治政府の包括的な芸能取締り政策と取り違えている節がある。
卑近な例をあげると、「文明開化期には、彼らは『国家に益なき遊芸』として、幾度か取潰しの危機にあっている。その代表的な事例が、明治五年二月下旬の東京府の通達である(『文明開化と差別』吉川弘文館、2001年)。
右の指摘を補足すると、(1)外国の芸人でない「彼ら」が「国家に益なき遊芸」の廉で、取潰しの危機にあっているという。(2)「彼ら」とは文脈からいって歌舞伎役者であり、(3)この取潰し危機の「代表例」として東京府の「芝居御諭」をあげている。
これらの指摘を時系列的に整理すると、東京府猿若町三座の座元と作者たちに「淫ポンの媒」を戒めた「芝居御諭」の通達は、明治5年2月下旬のことである。これに対して、外務省文書での「国家に益なき遊芸」の初出が同5年6月29日である。「代表例」としてあげている「芝居御諭」の通達のほうが、外務省の「遊芸」見解より四か月も早いのである。
どうみても「国家に益なき遊芸」が時間を前後して独り歩きしている。この誤解は、わが国の近代芸能興行史における基本法令とみられる、明治5年8月教部省布達の「芸能取締り三か条」の意義とその役割を差し置いていることからくるものだろう。
最後に、先の新聞記事と対照して、やや正鵠さを欠くとみられる記事(『横浜毎日新聞』明治8年3月29日付)を取りあげてみる。当時の相州農村の芸能興行の賑々しさを「彼の村でも芝居、この村でも芝居ありと聞きて(中略)入費の掛るも厭わず舞 躍る有様(下略)」と報じている。
農村の実態をみると、神奈川県はすでに、記事の5日前の3月24日に開港場横浜を除く全農村に改租事業卒業まで芸能興行の免許地制限(禁止)令を厳達している。さらに、この「舞躍る有様」を全国の農村にまで広げている史料さえ散見される。開化期の新聞記事の検証を通して史料評価の再吟味が求められるところである。
開化期のジャーナリズムは、「芝居撲滅」を主唱するなど政府に同調的な傾向がみられるといわれているが、ここでは触れずに身近な記事を選んで近代芸能興行の諸相を瞥見した。
[はしもと きんすけ/東北大学大学院文学研究科・専門研究員]