『太平洋戦争期の物資動員計画』の日本学士院賞受賞で思うこと 山崎志郎

2019年09月11日

太平洋戦争期の物資動員計画』の日本学士院賞受賞で思うこと

                    山崎 志郎
                    (大妻女子大学社会情報学部教授)

 一九世紀末から二〇世紀の世界の歴史は、人類史上で最大規模のわざわいが集
中した時代であり、日本の近代社会は、多かれ少なかれそうした国際的緊張や対
立の中にあったと思います。第一に、生産力と市場が劇的に拡大し、資源の大量
消費と大量生産、自然環境の徹底した利用と改変、人口爆発と大量移動が起き、
第二に市場経済の深刻な不具合を経験し、体制選択をめぐる激しい国内衝突が選
択の前にも後にもに起きました。第三に、民族、国家・国民、領土・勢力圏とい
ったさまざまな「境界」がもたらす摩擦が激化し、そのため、第二の体制選択問
題と重なって、「ファシズム」「全体主義」「軍国主義」「コーポラティズム」
「社会主義」「総動員国家」といった種々の統合理念を持つ国家が誕生し、覇権
争いやイデオロギー的な対立を生み出したように思います。対立は統合理念を異
にする国家間でも軍事同盟を締結させ、それがまた緊張と危機を増幅させました。
第四に、誤解を怖れずに敢えて「わざわい」の一つに数えますが、「理性」や
「合理主義」、イデオロギーの優位が挙げられます。極端な行政の介入、強大な
権限を集中した官僚機構が国家と社会を「守る」ために構築され、自然的調和の
対極にある人為的安定を作ろうとしました。いまもそうした二〇世紀的なものに
煩わされていますし、二一世紀も似たようなものかも知れませんが、もう少しス
マートな処理方法を見つけるかも知れません。

 第一次世界大戦、民族自立運動と帝国主義の再編、社会主義革命、世界恐慌と
強固な保護主義の台頭といった事件は、結局一九三〇年代に自給圏思想、強力な
軍事同盟を生み出し、人類史上最大の殺戮と破壊をもたらしました。日本もその
当事国でした。日本経済評論社から刊行した『戦時経済総動員体制の研究』、
『戦時金融金庫の研究』、『物資動員計画と共栄圏構想の形成』、『太平洋戦争
期の物資動員計画』は、そうした二〇世紀半ばの国家統治のあり方を「戦時経済
総動員体制」という用語で捉えようとしたものでした。

 断絶説、連続説からこうしたテーマに取り組み、構造的なものと段階的なもの
を両面で捉えようとした大石嘉一郎先生の議論に触発され、断絶説ではあるが柔
軟な原朗説、連続説だがある種の「型」論である岡崎哲二説と接し、アナール学
派的空気を吸ったりすると、あまり厳格な大論理で歴史を断じるのもいかがなも
のかなと思うようになりました。市場経済だが市場的均衡とは異なる「均衡点」
を組織的・協調的に誘導する方式の極限的姿を差し当たり「総動員」と呼ぼうと
考えました。一九四〇年頃、経済統制をめぐる制度設計が「経済新体制」として
叫ばれるなか、毛里英於菟、迫水久常らの革新官僚と経済界を代表した帆足計と
の間の、言葉を選んだ官と民の綱引きのような議論や、戦後の美濃部洋次の回想
は、「統制」や「動員」の実際の姿を想像させるもので、アイデアの源泉となる
刺激的なものでした。そうした中で、一度固まると岩盤的な枠組みに長期間にわ
たって経済活動が規定されるといった「大理論」が窮屈だと思うようになりまし
た。
 
 研究の紹介も簡単にしておきます。主要国の軍官僚は、第1次世界大戦における
総動員準備の失敗を踏まえ、一九二〇年代半ばに軍事紛争の発生から本格開戦ま
での短い期間に戦時経済総動員体制へ移行する計画を準備し、法体系を整備した。
日本でも内閣に二七年に資源局が設置され、開戦直前から兵器産業や関連工業の
増産や備蓄体制が検討され、「総動員期間計画」が策定されました。三〇年代前
半に計画内容は拡充されていき、将来の作戦計画に不足する兵器生産能力の拡充
と、それを支える鉄鋼、軽金属、燃料、造船、自動車、工作機械などの増産政策
(生産力拡充計画)が始まり、各種の製造事業法などとして助成法体系が整備さ
れます。世界恐慌で主要国が保護主義や自給圏構築に走り始めると、自給不能な
石油、ボーキサイト等の南方資源や、自給困難な石炭、鉄鉱、非鉄金属、食糧、
塩の補給をどうするかが深刻な課題になり、生存圏思想が台頭し、「日満支自給
圏構想」やインド・豪州も含む「大東亜共栄圏構想」が生まれました。

 一九三七年に日中間で軍事紛争が勃発すると、陸軍軍需動員計画が発動され、
同時に物資動員計画が動き始め、三九年度には国家総動員諸計画が整備されるこ
とになります。物資動員計画では、自給圏内の資源を国家統制の下に置き、生産
と配分が計画が導入され、共助組織であるカルテル、工業組合などの業界団体は
計画に順応することで、業界利益を守るようになりました。太平洋戦争で日本は
国際的にほぼ完全に孤立し、貿易は途絶し、軍の支配下にある中国や南方占領地
は、自給圏構想に沿って計画的な資源配分に組み込まれました。こうして軍需物
資から生活用物資まで、生産とその配分に計画が導入され、多くの物資に公定価
格が設定されて、企業の自由度は大幅に狭められました。しかし、総動員計画に
沿って事業を進める限りで、企業は補助金・減税、資金・労働力・原材料割当の
優先などによって一定の収益と成長が望めるように経済統制は設計されていまし
た。一方、「不要不急」とされ、物資動員計画で資源配分を削減されることにな
り、スクラップ化(再資源化)された民需産業は過酷な状況に追い込まれました
が、設備廃棄や営業権放棄に当たっては、資産評価の優遇、共助金等の廃業補償
を受けて、転業・転職を円滑にする措置が取られ、犠牲の分散と調整に、商・工
業組合や各種の翼賛団体が協力しました。

 開戦の決断自体にも経済総動員体制の持続可能期間の計算結果が考慮されまし
た。計算の基礎は船舶保有量から作戦使用船舶を引いた利用可能船舶量であり、
物資輸送可能量が割り出され、それを積出地別の石油、石炭、鉄鉱石に割り振り、
国内での種々の生産計画と配分の見通しが立てられました。生産要素の配分では、
船舶、鉄鋼、軽金属、石炭、航空機生産が重点化され、作戦計画に沿って軍事的
消耗の補填を目標に、国民の生活を計画的に縮小しました。

 終戦の決断要因の一つも、海上輸送能力の喪失と大陸からの戦略物資の供給見
通しでした。終戦の少し前の物資動員計画の策定作業では、一九四五年末に塩の
欠乏から、飢餓と疫病が家畜や人に拡大することが明らかになり、戦争継続は不
可能になっていました。

 こうした輸送計画から原材料割当、生産計画、製品割当に至る計画体系を戦争
の全期間にわたって具体的に明らかにし、その過程でさまざまな政策手法や経済
主体との間に組織的協調を創出したり、内閣崩壊といった政変の背景になったこ
とを分析し、幅広くその影響を明らかにしたことを、今回は評価していただいた
のかと思います。

 こうした政策手法や組織的協調関係は、環境によって持つ意味が異なりますが、
戦後占領下の復興過程や高度成長期の政策協調などにも見いだすことができます。
それは「総動員」ではありませんが、国際秩序と日本の置かれた状況に応じて、
その都度新たな市場制度が設計されました。二〇世紀の狂気の遺産は、一九八〇
年代のグローバリゼーションや規制緩和・構造改革の中で、後退していきますが、
相当の長期にわたって需給調整が日本経済の特徴であったと考えます。今後も、
そうした市場制度の変容を行政・政策の介入の視点から検討して行きたいと思い
ます。