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この木なんの木 政治(ぎまん)の木…

中川 辰洋

「ヘドが出る」。そう叫んだのは、1998年10月に金大中韓国大統領に同行して訪日した夫人(李姫鎬)が、敬虔なカトリック教徒の大統領とは異なり、メソジスト派信徒という縁で青山学院大学訪問の記念に植えたとされる一本の木を目にした時だった。

時の小渕恵三首相と会談して日韓両国の関係改善を謳う金大統領を支える夫人の思いは分からないではないが、ジャン=ポール・サルトルの『嘔吐(La nausée)』を連想させたのは、文鮮明を教祖と仰ぐ新興宗教教団・統一教会(勝共連合)系原理研究会の都内屈指の拠点だった曰くつきの学校が訪問先に選ばれたからだ。この教団は保守系軍人や政治家たちと連携して金夫妻をふくむ民族左派を徹底して弾圧した右派勢力の一翼を担ってきた。

そんな原理研と青学大との接点は、1960年代末から70年代初頭に神学部を中心とする学園闘争の炎が燃え上った時分に遡る。闘争を嫌悪する大学執行部は、霊感商法などで悪名高い原理研の活動家を学内に大量に導き入いれて闘争潰しに当たらしめた。そして、かれらが雇い主の期待どおりに働いた結果、学校サイドはバチ当たりどもをキャンパスから放逐したばかりか、神学部は解体され、国際政治経済学部へと衣替えして今日に至る。

話はこれで終わらない。予想されたことだったが、自らの拠って立つプロテスタンティズムの学び舎で、異国の新興宗教の信徒が肩で風を切る事態を招いたのだ。原理研に属する教員・職員・生徒が「三位一体」となって校内を跋扈して生徒らを一本釣りする手口が社会問題化し、七〇年代前半『週刊文春』などのメディアによって散々叩かれた。

筆者が赴任した当時は往時の勢いはなかったというが、それでも教職員はもとより、生徒のなかにも信徒は少なくなかった。とりわけ韓国の留学生と聞くと、まっとうな人間もいたけれども、原理研の影を無視できなかった(昨今では〝兵役逃れ〟が主流のようだ)。

講義中、筆者は「諸君のなかで原理研に勧誘された人がいると思うが、ここはかつて都内屈指の拠点だった。二十年ほど前の週刊誌などを図書館で閲覧するといい。いまを時めくオウム真理教の出家信者の問題との共通性にも理解が及ぶはずだ」と一再ならず紹介した。だからであろう、原理研系教職員には疎まれ、よく因縁をつけられた。

話をもどそう。金大中夫妻をはじめ民族左派の学生・市民が統一教会・原理研に苦しめられたことを顧みれば、大統領夫人の訪問先の選定は完全な間違いだった。神学部生諸君の闘争は敗北したとはいえ、かれらの主張は八〇年代の中南米で一世を風靡したカトリック系聖職者たちの謂う Theologia liberationis(解放の神学)に通ずるがゆえに、何にもまして金大統領が思いを致すべきは、いまはなき神学部で学んだ若者たちであったろう。

だが、ここが政治のいかがわしいところだ。日本の保守系政治家とも馴染みの統一教会・原理研のかつての巣窟を夫人の訪問先に容認したのは、当の金政権だった。統一教会とそのシンパの日本の政治家連には目を瞑ったうえで。その後、盧武鉉、文在寅のような左派色の濃い大統領が誕生すると、「忠華愛国、反日無罪」にますます傾斜し、日本や日本の保守系政治家たちへの攻撃をエスカレートさせるも統一教会を表立って批判することを避けた。

そこへもってきて金夫妻の親族の不正発覚と相前後して左派系政治家たちの不正が相ついで暴かれる事態が出来した。文大統領の腹心・の事件は起こるべくして起きたといえよう。ところが、民族左派は身内の不正が発覚するや決まって沈黙を決め込み、「反日」のボルテージを上げることで難を逃れようと企んだ。トロツキーと並ぶロシア革命の英雄レーニンの謂いを借りるなら、これこそ「内的矛盾の外的転化」そのものだ。

民族左派の心情を汲み取れば、日本奴(イルボンヌ)──かの国で日常的に用いられる日本人の蔑称──の右翼勢力こそが真の敵、ゆえに大統領夫人といえども、敵国のメソジスト系教育機関での植樹など言語同断、優先されるべきは信仰ではなく、反日ということになる。

世界的ベストセラー〈修道女フィデルマ〉シリーズの産みの親ピーター・トレメインは、宗教と学問とは無関係だと言い切る。うべなるかな。対照的に、宗教(家)はいつの世でも政治(家)に寄り添い、目的達成のために連合する。もちろん、手段なんぞお構いなしだ。

[なかがわ たつひろ/著述業]