〈追悼〉色川大吉日記のこと

栗原 哲也

色川先生の存在を知ったのは古いことであった。1950年代の初め、明治大学の木村礎さんが三多摩地方の古文書調査を始めた。古民家に残る村方文書の所在確認と筆写である。木村さんの手法は、予め通告しておいた家にゼミ生を連れて訪問し、その家の納屋や倉、奥座敷にまで上りこみ、ありったけの文書を書き写してくるものである。

色川先生が多摩地方の歴史調査を始めたのは50年代の後半だったと聞く。色川先生も古民家を訪ね歩いたのだろう。行く先々で「先頃、木村という人が調査にきた」と聞かされ驚嘆したらしい。そんな色川先生がどこかでボヤいたのかもしれない。「木村さんの歩いた後にはペンペン草も生えていない」と。この話が真実かどうかはしらない。木村ゼミではまことしやかに伝えられていた。色川先生は北村透谷研究のために多摩に通ったと聞く。木村さんも透谷には関心があったようだが、その道には進んでいない。色川先生のことは、そんな他愛もないことから記憶するようになった。

最初の本『明治精神史』は苦労して手に入れた。先生の70年代に書かれたものは好んで買った。その中で、2005年以降に出版された「昭和自分史四部作」はくり返し読み、先生の人格と研究の深さに触れた思いがした。自由民権、五日市憲法、民衆史、自分史、水俣、交遊記と縦横に書き進んだ先生に、まだ書くことはあるのだろうかという思いはあったが、行動する老史家の本を出したいという蒼白き本屋の欲求は強くあり続けた。

某日、東京大学出版会の渡邊勲さんの手引きを得て甲州北杜市「鹿野苑」への訪問を許された。永年の念願が叶い先生の謦咳に接したのだが、当方の願いは告げられなかった。その訪問の折に見せていただいた先生の日記は強烈に記憶されている。少年期から今に至るまで書き続けられているという。事実に基づいて自分史が書けるのはこの日記があるからだ、とも仰られた。一架を埋め尽くす色川大吉日記だ。

先生は時代の証言者として最期まで筆を擱かなかった。

もう新しく書かれることはない。声も聞けない。茶髪の笑顔も見られない。さようなら色川先生。

歴史家として、社会運動家として生き終わった破天荒な色川先生。類を見ない先生の生涯にわたる日記こそ学術界の遺産になるに違いない。いつの日か、よき理解者を得て公開されることを片隅で念じている。

[栗原哲也/日本経済評論社会長]