開館近し、「誤訳博物館」

中川辰洋

大学院時代にお世話になったV先生が、ある時こんなことをおっしゃった。「研究者ですから、批判は覚悟の上です。でもそれは理論批判であって、論旨を無視した、やれ空理空論だ、やれ世間が納得しないの類の、非論理的かつ超越的な雑言は願い下げです」。

三十余年前、筆者が都内某大のシンポジウムに招かれフランスの金融改革の講演をした時のこと。「政府の一員」たる某銀行の調査マンがレフリーと称して「フランスはこれまでにも改革をしたが、失敗しています。いや、いつもそうです。この国を加えたEC通貨統合の展望は明るくない」と感想をのべた。筆者は「失敗と決めつける根拠はなんですか? いま進行中の改革を具体的に批評してください」と糾した。すると、司会役の同行OB氏が「時間がないので、これで終わります」と助け舟を出し、幕になった。

話はこれだけではない。昨年暮れも押し迫ったある日、旧い友人がこんなメールを送ってきた。曰く、「ある御仁がネット書店で、お前さんの『ジョン・ローの虚像と実像』を〝深み〟がないと批評していた。右、参考まで」。

確かに“Up-Up”とかいう御仁の批評があった。「深み」がないのくだり、V先生ならば、即座に「非論理的かつ超越的」と一喝されただろう。だが、事は経済学史、論理もさることながら、歴史的資料や文献への言及があってしかるべきだが不勉強が禍したのだろう。現代ヨーロッパ金融を生業とする人間如きが何をか言わんやと尊大ぶって誤魔化すものだから、始末が悪い。

Up-Up氏は斯界の学者と推察も、研鑽を積んで研究論文をあまた発表した御仁ではあるまい。現に、人様の論文を「タダで読めるから検索」と売り込む位だ。謂う所の深みとやらも道端の水たまり程と思えば腹も立たない。

稀代の銀行家ジョン・ローの説く貨幣論や信用論が現代でも高い評価を得ていることは、「経済思想史の素人」でも承知している。ちなみに、現実の金融問題専門の人間に言わせれば、金融界では「広く深みのある」市場が「練れた市場」として重宝がられるが、これは御座敷の議論ではない。

それよりも、ローをはじめ、「古典」の誉れ高い18、9世紀の著述家たちの邦訳が間違いだらけでチンプンカンプン、素人以下ということこそを憂うるべきだ。筆者はこの十年余、ローの他、テュルゴー、リシャール・カンティヨン、それにアダム・スミスを論じた研究書を上梓するも、テュルゴー、カンティヨンはもとより、デイヴィッド・ヒュームに至るまで邦語訳が信に値しないことを嫌という程知った。

例えば、カンティヨンならぬカンティロンの邦語訳の「地主が公債の利子を支払う」は論外としても、“capital” をみれば「資本」、“public” といえば「公共」と訳すのは見識がない。谷崎潤一郎が『文章讀本』で蛇蝎磨羯の如く忌み嫌った学者先生の「化け物」的日本語もさることながら、「古典学」または「西洋古典」の素養に欠ける証左だ。

以前ご紹介したが、“capital” を資本と定位し概念規定したのはテュルゴーであり、ローやカンティヨンの時代では、この単語は「大金」や「有価証券」として通用し、また、ラテン語の“publicus” 語源の “public” も、本来の「人びと」の語義の他、中世期は「ローマカトリック教会」、17、8世紀であれば「御公儀」、「公方様」、つまり権力、権力者(支配者)を指す。“public utility”なる字句を「公共の効用性」と訳出するに至っては、まさに「病入膏肓」と言わざるを得ない。

筆者が学生時代に習った教員が「なぜ思想史を学ぶのか」の問いに答えて言ったことは至言だ。曰く、「世の中にはいろんな考えがあるということを知るためです。あの人は偉いし有名だからその考えに間違いはないなんて、フランシス・ベーコンの謂う Idola つまり偏見や先入観に陥らないよう心掛けねばなりません。間違いがないという考えは、畢竟、思考の放棄、人としての堕落の一里塚です。間違いは正す努力をすべきです」。

自分に気に入らない研究が発表されるたびに難癖をつけて葬り去ろうと企むくらいならば、間違いだらけの邦語訳を見直し、新訳を世に問うことに注力するに如くはない。「化け物」のような悪文を何十年も放置するのは、翻訳者ばかりか、出版社の罪でもある。

しかし、経済思想史や経済学史と銘打った大学の講義が毎年一つ、二つ姿を消しつつある昨今を鑑みるに遅きに失した感がある。あとに残るのはUp-Up氏の先学たちが築き上げた誤訳の山。このままでは「誤訳博物館」開館近し──のシナリオが現実味を帯びてくるのは必定。

[なかがわ たつひろ/著述業]