• TOP
  • PR誌『評論』
  • PR誌『評論』219号:五十周年記念特集●歴史学研究の「これから」─体験と運動① 戦時下民衆史へのアプローチ

五十周年記念特集●歴史学研究の「これから」─体験と運動① 戦時下民衆史へのアプローチ

安田常雄

ここ数年、小さな共同研究を細々と続けている。テーマは、やや通常の研究史とは異質だが、戦時下の「国策紙芝居」の資料調査であり、そのモティーフは、その戦時下メディアを通した民衆史の意味を探ることといえるかもしれない。

今から考えれば、ある偶然だったのだが、私が国立歴史民俗博物館(歴博)から神奈川大学に移った2012年頃、同大の非文字資料研究センターに「国策紙芝居」資料241点が入ることになった。せっかくの貴重な資料なのでと、共同研究の話が持ち上がり、2014年から「戦時下日本の大衆メディア研究」という研究がスタートしたのである。メンバーは、新垣夢乃、大串潤児、小山亮、鈴木一史、原田広、松本和樹、森山優の七氏と安田の8名であった。研究はその後、2018年に同センター・安田常雄編『国策紙芝居からみる日本の戦争』(勉誠出版)として刊行されたが、これは、全241点の作品紹介(あらすじと解題)、論説、そして現段階における国策紙芝居の全国調査データで構成されている。この報告集は大部であったが、関係者には注目され、思いもかけず同年の日本児童文学学会特別賞、翌年には子どもの文化研究所の第三回堀尾青史賞を受賞することになった。

その後の研究活動は、こうした流れのなかで、国内外からの情報提供やマスコミでの紹介、そして新たな調査地での紙芝居資料の発掘などが断続的に続き、今日に至っている。しかし、当時の国策紙芝居は、1000~1500点にのぼるともいわれ、その全貌は明らかになっていない。その作品群は、一方の極に絵に描いたような「戦意高揚」のプロパガンダ作品でおおわれているが、他方の極には、同時代の人々の生活と意識・感情を描き出す作品も含まれている。たとえば比較的よく知られた作品としては、「チョコレートと兵隊」(国分一太郎脚本、小谷野半二画、1941年)、「うづら」(日本教育紙芝居協会脚本、西正世志画、1941年)などであろう。前者は、当時チョコレートの包み紙の点数を集めて100点になると、チョコレート一枚をもらえるというサービスがあった。出征した父親は、めったに食べられないチョコレートを子どもに食べさせたいと戦友から包み紙を集めた。ある日、父親から1300点の包み紙が送られてくる。子どもたちは、お菓子の会社に送ってチョコレートを楽しみにしていた。しかしそのチョコレートが送られてきた日、父親の戦死の公報が届く。映画化された宣伝コピーでは、このような「人間味ある父親がいるから日本の兵隊は世界に類なく強いのだ!」と書かれていた。また「うづら」はある山村の冬。おきみの母は病気だ。ある日、父親に連れられて町にでかけるが、病人に食べさせれば病気が治るという商人の口上を聞いて、うづらを買うことになる。駆け出して家に帰り、母にうづらを渡す。母はうれしいといってくれるが、こんな小さな鳥を食べるのは「罪作り」だから「放しておやり」という。おきみは鳥を放しにいくが、うづらはどうしても飛び立とうとしない。おきみは追い立てて飛ばそうとする。「杉ばやし飛んでいけ。雪の山こえていけ」。おきみの明るい歌声が響き、うづらは空高く飛んでいった。貧困と母の病い、そして町への羨望、せっかく買ったうづらを逃がしてやる少女の屈託と解放の二重性。ここには「東北大凶作」のイメージが重なり、同時代意識の重層性が静かに描かれている。

やや一般化すれば、そこには、昭和初年から戦時下における子どもや人々のなかにある同調と異和の重層性を、作品の内在的分析を通して、問題化する必要が提起されているのであろう。それは、人々の抱えた問題の発見を通して、戦時下生活の重層性を捉えなおすことであり、それは方法の問題である。普通の庶民にとって「総力戦」とはなにか。それは、理論分析や統制制度の解説だけではなく、戦時生活様式の内実を生活と感情の矛盾するダイナミズムへのアプローチが、その核心であり、「国策紙芝居」研究は少なくともその解明の一端を担っていると思われる。いま、共同研究班としては、「続編」にむけて、研究を続けていきたいと考えている。

私の個人的経験でいえば、紙芝居は、私の育った東京の場末の町にも毎日やってきていた。紙芝居のおじさんの太鼓の音が聞こえると、原っぱのような空地に子どもやお母さんたちが集まった。出し物は漫画と「母もの」と「怪奇もの」の三本立てが定番だった。小さな子どもを前に、自然と人垣ができて、大人はその後ろに立っていた。一通り準備ができると、おじさんの太鼓がひときわ大きく響き、前の日の続きがはじまるのだ。それは子どもにとって、ある緊張のひと時だった。それは昭和20年代後半から、30年代のはじめの頃であった。それがいつまで続いたかははっきりしないが、ただ紙芝居は、TVの普及とともに衰退の途をたどったというのが、通説なのだから、1960年あたりが境目だったのだろう。

紙芝居史では、こうしたタイプを「街頭紙芝居」と呼んでいるが、正確には戦後の「街頭紙芝居」というべきなのだろう。それは「街頭紙芝居」の全盛期は、昭和初年の昭和恐慌期にあり、幻の「黄金バット」がその象徴であったからである。しかしその時期の「街頭紙芝居」のピークは、昭和10年代に入ると陰りを見せ、「教育紙芝居」と呼ばれる第二のタイプが生まれる。それは昭和初年の「街頭紙芝居」の残虐性や荒唐無稽さ、さらにいえば「非教育性」への批判が高まっていく。それはこれらの担い手がいわゆる教育者や宗教家などであったからでもあった。そして折から台頭する軍関係者などが、「街頭紙芝居」の下からの力に注目し、「国策啓蒙」の手段として活用することを考えるようになっていく。そこに生まれるのが共同研究のテーマでもある、いわゆる「国策紙芝居」であり、その制度的画期は1938年の日本教育紙芝居協会の設立であった。そしてそこには、前記の教育者や宗教家ばかりでなく、プロレタリア文学や社会運動などに関わった人々もなだれ込んでくることになる。そこでは、子どもの内側からの「自然成長性」に代わって、上からの戦時啓蒙(教育・宣伝)が流入してくる。そしてこうした紙芝居作家を中核において、折からの戦争の進展と呼応して、戦時国策の推進母体である軍部、官公庁、大手マスコミなどと一体化した、「国策紙芝居」というメディアが始動していくことになったのである。

[やすだ つねお/国立歴史民俗博物館名誉教授]