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感染症という災害下における記念特集刊行にあたって

社長肝煎りで進めていた〈災害とコミュニティ〉というテーマに、パンデミックという新たな災厄が重なった。災害とは、住宅や人口などの数量的な被害だけではとらえられない事象である。災害時には平時のつながりは絶たれ、日常にあった困難がより強く現れる。先生方のご寄稿はこの視点から、現下のパンデミックを考えるヒントとなる。
塩崎先生による、これまでの災害と住宅復興からコロナ禍への論考のあとで、葛西先生が具体的な生活者へのコロナ禍による圧迫──その最も苛烈なひとり親世帯の事例──を明らかにしている。我々のすぐ近くにあったのは、「死」すら脳裏にちらついて離れない非常な苦境である。仕事を続けられた人びとからは死角になっているが、そこでの苦しみは筆舌に尽くしがたい。まして塩崎先生の示唆する複合災害となった場合、その被害の深さは計り知れない。変わらないお粗末な緊急時対応に、感染症対策がかさなる。長期化する復興期間において、より徹底的な孤立、DVや虐待、自殺がもたらされうる。九州の被災地にはより多くの支援が必要だ。
小山先生によれば、過去の原子力災害において放置された農村は、その内部に巨大な傷跡を残しており、分断はさらに深化している。農村・地域社会における災害とは何かを考える際にも、人々のあいだにある社会関係がひとつの基準となる。大高先生のおっしゃるように、これまで人々の間を引き裂く災害への対応から立ち上がってきた協同組合は、これら忘れ去られ孤立してゆく人々を社会に引き留める試みを続けている。既存のイメージに縛られず、誰しもが自らの生活を考え直すことから必然に求められる協同の発想を再度、具現化していくべきだろう。
災害が平時の社会状況に潜在する困難や孤立を顕現させる現象であるという認識は、研究上すでに常識となっている。それを研究上の視座にとどめず社会に伝えていくと同時に、社会関係から問い直す日常/カタストロフの論理が少しの猶予もなく求められている。