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南北戦争から戊辰戦争の間の日米関係

大島 正太郎

日米関係はミラード・フィルモア第十三代大統領が1851年年央に行った政策決定の下、曲折を経てマシュー・ペリー提督が日本に派遣されることになり、彼が日米和親条約の締結に成功し、その後、和親条約に基づき下田に着任したタウンゼンド・ハリス領事により日米修好通商条約が締結され、その批准書交換(1860年5月)をもって本格的に始まった。この間の米国の対日政策の背景を書いたのが拙著『日本開国の原点――ペリーを派遣した大統領フィルモアの外交と政治』である。

1850年代にその基礎を敷いた日米関係は、その直後の1860年代には停滞する。米国はリンカーン大統領就任1カ月後の1861年4月に、南部諸州と北部諸州との内戦に突入し、4年にわたる戦争とその後の南部諸州の復興・連邦復帰に精力をそがれたので、米国側で対日関係を積極的に推進する状況になかった。米国で戦後復興が進み始めると、今度は幕末の動乱・戊辰戦争に突入した日本側の対米関係の動きは停頓した。

つまり、1860年代の日米関係は、米国の内戦(米国では「あの内戦」という意味でThe Civil Warと言う)に始まり、日本の幕末動乱・戊辰戦争で終わるので、いわば有事の時代であり、いずれの国も国内情勢ゆえに相手国との関係に最小限の関心しか持てなかった。

その中で、1860年代の日米関係を象徴する格好の史実がある。

それは、1867年5月に幕府が米国に軍艦購入のため使節を派遣し、南北戦争後米国が処分をしようとしていた「ストーンウォール号」という最新鋭の鉄甲艦を中古で購入したことである。この艦艇の歴史はさながら、この時代の日米関係の複雑な展開そのものであった。

この軍艦は、そもそも「南部連合」政府が開戦直後ひそかにフランスの造船所に作らせた最新の鉄甲艦であり、竣工後米国政府の意向を踏まえ仏政府が南部連合にわたることを阻止した。その結果、軍艦はデンマークが買うことになったが、実際にわたる前に対プロイセン戦争も終わり、デンマークにとって不要となった。そして一八六四年末には、再び南部連合の手に渡り、名前は「ストーンウォール号」とつけられた。「ストーンウォール」の名は南軍の勇猛果敢な指揮官、ジャックソン将軍のあだ名であったが、同将軍は1863年5月ある戦闘で友軍の誤認射撃で死亡し、英雄的存在になっていた。しかし北軍の海上封鎖で南部の港に入ることが出来ないまま南北戦争が終わり、戦後北軍の所有となった。

ちょうどこの頃幕府は、1864年と1866年の長州征伐の経験から海軍力強化の必要性を痛感し、米国に小野友五郎を長とする軍艦購入使節団を派遣(1867年)した。米側はこの機にワシントンの近く、ポトマック川に係留中で始末に困っていた「ストーンウォール号」の処分に成功し、幕府側と四十万ドルでの売却に合意した。

この時米国政府は小野友五郎一行に対しスワード国務長官とウェルズ海軍長官の下で積極的に応接した。ウェルズの日記に小野使節団滞在中の動きが記録されているが、一行はスワードの計らいでジョンソン大統領に引見(5月3日)し、さらにスワード国務長官が一行を主賓とした晩餐会(4日)を行い、ウェルズも陪席した。

しかし、この艦船が日本に到着した時は戊辰戦争の最中で、米側は中立の立場を主張し、この船を幕府側に渡さず戦況を見守った。維新政府側の勝利が確実になると、米国は明治政府に渡すことを決断し新政府もこれを購入した。その後「東艦」との名で、函館戦争に維新政府側で参戦し、戦果を挙げた。

反乱軍南軍が注文し、勝者連邦政府から幕府が買ったが、今度は幕府から見た反乱軍にわたることとなり、維新政府の勝利に貢献するという数奇な運命をたどった艦艇であった。

内戦を抜け出した米国と内戦に突入しつつあった日本の両政府の間に奇妙な結びつきがあった。何時か、南北戦争から戊辰戦争の間の日米関係について、米国の政治外交史の視点で見てみたいと思っている。

[おおしま しょうたろう]