• TOP
  • PR誌『評論』
  • PR誌『評論』217号:「生きること」を歴史から問う④共同的記憶がつくる「民主主義」

「生きること」を歴史から問う④共同的記憶がつくる「民主主義」

倉敷伸子

 同じ制度に統治され、同じ言葉を使い、同じ生活水準にある人々が、その制度や言葉についての理解を共有しているとは限らない。社会は多義的解釈で成り立っている。このことを、私は一九九〇年代中頃、四国のある小都市で暮らしはじめた時に強く意識した。そこは、門前町として栄えた町だったが、公共施設や飲食店が集まる市街地を抜けると、農地を切り売りして建てられた住宅が統一なく点在し、その間の細く曲がった道の先には、田んぼが広がりアスパラガスやイチゴの温室が並んでいた。専業農家は激減していたものの、生活と農業の距離はまだ近かった。一方、スーパーの売り場や、服装の流行は、私がそれまで住んでいた東京都郊外とほとんど変わらない。ちょうど携帯電話が普及しはじめた頃だったが、その浸透速度も同じに見えた。
 しかし、「大衆消費社会は、どこも均質」というあなどりは、移住後最初の市議会議員選挙によって砕かれた。選挙が告示されると、各選挙事務所には近隣の男女が次々に出入りしていた。人々の少し昂揚した態度は楽しげであり、選挙への関心の高さを感じさせた。一方、町を廻る選挙カーは候補者名のみを連呼し、選挙広報も各候補者がどのような政策や理念を主張しているかの情報には乏しい。私はよそ者の疎外感を味わったのだが、選挙のあとは、投票率の高さに驚かされた。投票率は八割に近く、それでも市議会議員選挙としては最低だったと報じられていた。
従来、政策や理念を議論しない選挙運動と、高い投票率というムラの選挙は、「受け身の義務型民主主義」(篠原一『日本の政治風土』岩波書店、一九六八年)、「選挙目的の監視・動員ネットワーク」の産物(斎藤淳『自民党長期政権の政治経済学』勁草書房、二〇一〇年)等と位置づけられてきた。私が見た選挙も、たしかに、「政策と政策の言葉を介した対抗」という選挙観から見れば民主主義的ではなかった。しかし、人々はこのような「正論」とは別の文脈で選挙を歓迎し、選挙を大切にしているように見えた。とすれば、その文脈はどのようなものなのか。ムラの選挙が作り上げた組織は、今なお保守政権を支持する単位であるという意味で、社会を支えている。その根幹を知る上でも、人々が選挙を通して体現したことを、「正論」からの距離によって測定するのではなく、人々の生活を通して内在的に手繰りたいと思った。
 その後、私は、元市議会議員、その配偶者、料亭の女将、農家の主婦などを訪ねては、幼少時から現在までの生活体験を自由に語ってもらった。毎週、曜日を決めて通い、それが一年に及んだ人もいる。地域で生きるために、何を優先し、何に信頼をおくのかを、生活の文脈を通して理解したかった。そのために、発せられた言葉を辞書的にではなく、当人が積み上げてきた経験と重ねながら読解することに努めた。
 その結果、何がみえてきたのか。詳しくは、二〇二一年刊行予定の大門正克・高田実・長谷川貴彦編著『生きることの問い方(仮)』所収の拙論に譲るが、今、言えるのは、専業農家解後のムラの選挙は、「ここで生きる」と考えた人々が、戦後社会を経由して、自ら選択した一つの形態だということである。それを保守的慣行の継続とみるのは不十分であろう。ムラには戦後、手に入れた、ムラの「民主主義」があるのだ。没落した旧名望家から買った土地を資源に選挙に立ったり、地域団体の長になることも可能となった。その中で人々は、伝来の農地を引き継ぐ傍ら、時代に合わせて機械化、雇用労働への参加、農地の宅地転用・不動産化、公共事業計画との取引等と、各戸、各人の資源と情報を元手に主体的判断を積み重ねてきた。まさに「である」から「する」への転換があった。しかしながら、結果としてムラは変容し、自分たちが培った経験は、引き取り手を失っていく。それでも「ここで生きる」「ここで生きていくしかない」と覚悟する人々は、その経験をムラの共同的記憶として意識することで、紐帯を確認しあってきた。市議会議員選挙は、ムラの共同的記憶を喚起し鼓舞する格好の場であった。そこで人々が期待したのは、政策によって未来を選択する「民主主義」よりも、自分たちの記憶を相互に肯定する「民主主義」だったのではないか。ここに、高度成長を経た後のムラの選挙の歴史的位相があると、私は考えている。
[くらしき のぶこ/四国学院大学教授]