聖者の千慮に一失

中川辰洋

 「研究者が聖書を論ずるのは哲学の問題で、信仰とは異なる。それに、研究者はラテン語から聖書に入る。お前さんも研究者だから、ラテン語で語ることを心掛けよ」──パリ在住中のラテン語の師R神父の口癖であった。
 それから絵に描いたような無神論者の筆者の腹の内を見透かしたかのように、こう付け加えるのを忘れなかった。「お前さんは研究者だ、いずれウルガタ聖書(BIBLIA SACRA VVLGATAE)の頁を繰るようになるだろう」。
 爾来十年余、仏語や英語で書かれた研究論文中の聖書の章句はこれを当然のようにウルガタでチェックする己に気づいて驚くことがある。
二年ほど前、ヨーロッパの政治状況をテーマとする論文の中で、行論上スペイン・カタロニアの民族主義者による分離・独立運動に言及しなければならなくなった時、これという理由があった訳ではないけれど、欧文メディアの記事やレポートをひとまず脇に置いて、オーウェルの名著『カタロニア賛歌』を手に取った。
 本書には約半世紀前、高校生の時にお目にかかっている。現代思潮社版と記憶するが、いまはハヤカワ文庫だ。
記憶とは頼りにならないもので、頁を繰って間もなく、作者が題辞とした聖書箴言集の、「愚かなる者にはその愚かさに応じて…」ではじまる一節に出くわし面食らうも、いつものようにウルガタに当たってみた。“Ne respondeas stulto iuxta stultitiam suam ne efficiaris ei similis/ Responde stulto iuxta stultitiam suam ne sibi sapiens esse videatur(LIBER PROVERIORVM, XXVI: 5-6).”
 出所はXXVI: 5-6すなわち第二十六章五、六節、手元のハヤカワ文庫版の「箴言集第二十五章五、六節」は誤訳または誤植だろう。念のため、本務校の図書館本館でオーウェルのオリジナルに当たったほか、現代思潮社、岩波文庫の邦訳を参照したが、なべて「聖書箴言集第二十六章五、六節」を出所としていた。
 ちなみに、R神父は“カタラン(カタロニア人)”──厳密にいうと、一九三〇年代のスペイン内戦時、共産党系共和派将校として参戦するも敗北、独裁者フランコの軍門に下るのを潔しとせず、ピレネーを越えて隣国フランスに亡命したカタロニア人の四男としてパリで生まれた。それでも、この地方独自の「集団意識と文化的特質」を立派に備えた人物である。ハヤカワ文庫版「カタロニア讃歌」の題辞の出典ミスを発見したのは、カタランの師の教えに従い「ウルガタ聖書の頁を繰る」ことを習いとするようになった成果である。奇遇といえば奇遇である。
 そんな話を、聖書のみを拠り所とする敬虔なプロテスタントの畏友・道川勇雄氏にある時披瀝するや、その日のうちにこんなメールを寄越してきた。曰く、「聖マルコが預言者イザヤの書に、見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』と書いてあるように」(マルコによる福音書第一章一、二節)というのは、「マラキ書第三章一節の記憶違いです」。
 ことほどさように、ウルガタ聖書の頁を繰って、くだんの福音書(EVANGELIVM SECVNDVM MARCVM)の当該箇所にたどり着き、目にするかの一節 “Sicut scriptum est in Isaia propheta: Ecce ego mitto Angelum meum ante faciem tuam, qui pr.ANfpar-abit viam tuam ante te. Vox clamantis in deserto: Parate viam Domini, rectas facite semitas eius” はLiber Malachiae Prophetaeにある。
 それで思い出した。俗語訳聖書の誤りや不適切な表現を発見し正す意見書をフランスの教団ひいてはヴァチカンに送ることを任務とするわが神父は、ある時こんなことを言った。
 「ウルガタが完成したのは五世紀初め、それから千年以上経過した十六世紀央のトリエンテ公会議で公認聖書とされたが、この間訳文はいく度となく修正されている。かの公会議から五世紀が過ぎようといういまに至るも訳文の見直しが行われている。ぼくのような人間の仕事が成立するのはそのためだ。五〇〇年後の世界でも、ぼくのような人間が食いっ逸れることはない。まさに愚者の千慮に一得だ」。
 わが師は母国語のほか、カトリック教徒らしくヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語、さらにはアラビア語やペルシャ語など十二カ国語を操る“多言語併用者”だ。曰く、あまたの言語を用いてする真理追究の要諦は、存外、他の分野と同様、何事も絶対視しないことにある。
[なかがわ たつひろ/青山学院大学教授]