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五十周年記念特集●経済学研究の「これから」─活路と隘路④ 「つなぐ」第二世代──世代を超えて共有すべきものとは

岡部桂史

 二〇一九年四月、私は立教学院史資料センターのセンター長になり、大学史編纂事業とアーカイブズ運営に携わることになった。立教大学は、学校法人としては立教学院の傘下にある。米国聖公会のウィリアムズ主教が前身の立教学校を東京築地に開校したのは一八七四年なので、二〇二四年に創立一五〇周年を迎える。現在、センターを中心に『立教学院一五〇年史』の編纂が進められている。
 本来ならば、ここで大学史や大学アーカイブズの意義や成果を語るべきかもしれない。だが私はといえば、これまでそれらとは縁遠く過ごし、未だ語るべき何かを得てはいない。そこで今現在、私が直面しているセンターに関する課題(悩み?)を振り返ってみることにした。
 立教学院史資料センターは、一九八九年にスタートした『立教学院百二十五年史』編纂事業を母体として、二〇〇〇年十二月に発足した。有期の周年事業から常設の組織への移行は大きな困難があったと思う。設立に関わったキーマンの一人で初代センター長の老川慶喜氏は、立教学院の歴史を資料に基づいて実証的に明らかにすることを通じてのみ、今後の学院の歩むべき方向が正しく見定められると語っている。もう一人のキーマン、『立教学院史研究』初代編集委員長の寺崎昌男氏は、資料の収集と活用にあたる「文書館」としてだけでなく、そこで新しい研究者が育っていく「苗床」としてセンターを位置づけている。
 要するにセンターはアーカイブズ機能と研究機能を兼ね備え、建学の精神(ユニバーシティ・アイデンティティ)を確認し、将来像を構想するための材料を収集・保存する常設組織ということであろうか。うぅ重い…。
 センター長に就任後、こうした設立の経緯を改めて確認した私は、ちょっとたじろいだ。たじろぎながらも一年間はあっという間に過ぎ去り、大学着任後わずか四年の私がセンター長に就いた意味も少し考えるようになった。
 私の就任までセンター長には三人が就いている。彼ら彼女ら三人は大なり小なり、その立ち上げに関わり、無から有を生み出してきた第一世代の創業メンバーだ。創業の志を共有するセンター長が同じく設立時からのセンター員を率いてセンターを運営してきたといえる。ところが私の就任時点では、設立時からセンターに残っているのは、わずか一名になってしまっていた。
 確かに十数年にわたる歴代のセンター長やセンター員の尽力で、センターの役割・業務は定型化され、資料の受け入れから紀要の刊行まで、一見すると全てがスムーズに運営されている。もう誰がセンター長に就いてもとりあえずは大丈夫と思う。ただ自分自身を振り返ると、この一年、果たしてあの高らかに謳われた設立時の目的に沿った運営をしてきたのか甚だ心許ない。設立時の熱意や志を失っているのではないかと自問自答してしまう。
いや、一方で現在のセンターは、組織として粛々と業務を遂行する体制を整えているという見方もできるかもしれない。センターは、多くの大学と同様に、財政的事情から専従教員を配置できず、学部教員兼任のセンター長と任期付の助教、人事異動のある事務職員で構成されている。多くの限界の中でセンターは、継続的事業体として、小学校から大学までの学院全体のアーカイブズ機能を担い、安定した運営体制を構築しなければならない。設立時のある種の「熱気」や設立メンバーの「思い」にとらわれ続けるのも健全な組織とはいえないような気もする。
 私自身はセンター第二世代との自覚がある。良くも悪くも、第二世代は第一世代の薫陶を受けることができた世代である。では次なる第三世代にどのようにバトンをつないでいけばいいのであろうか。身も蓋もない答えは「バランス良く」なのかもしれない。だが、中途半端な第二世代として、もうしばらくは第一世代のことを忘れないように悪足掻きしてみるつもり。
 翻ってみると、団塊ジュニアの私の同年代は、人数だけは学界でも大きな層を占めるようになった。専門領域で自分たちが第何世代かは微妙だが、上の世代と下の世代を「つなぐ」年頃になってきたようにも思う。ずいぶん少なくなった下の世代をみると、ここでも悪足掻きが必要だろうか。
さて、ここで書いた課題にどう応えたかは、二〇七四年に刊行予定の『立教学院二〇〇年史』で明らかになるのだろう。一九七四年生まれの私がちょうど百歳の頃。結果を知らされる前にいなくなっていた方が良さそうだ。
[おかべ けいし/立教大学教授]