語り 騙り うつろな心

中川 辰洋

 以下の三つのうち間違いはどれか。
 ①偽医者、②偽画家、③偽弁護士。
正解は②。①や③とは異なり資格や免許を要せず、自ら「画家」と称すればよしとする。名前の通った知人の某画家がそういうのだから間違いない。曰く、「画家なんて大体そんなもんですよ。芸術家とは名ばかり、自意識過剰の見栄っ張りが多い」。画家はつづける。「ところで、後生だから一つ頼まれてよ、名探偵さま」。 
 話はこうだった。「とある喫茶店に入ってコーヒーを注文し、ふと周りを見回すと、何幅かの絵が立派な額縁に収まって壁を彩っていた。正直、額縁には気の毒千万な駄作だった」。
 「絵に興味おありですか」──店のママさんが訊いてきた。「ええまあ」と応える間もなく、間髪入れず「ここは画廊喫茶です」と言葉をついだ。「立派な画伯が大勢おいでですが、機会に恵まれないので、わたくしが世に出るお手伝いをしていますの。今週はある画伯の作品展です。この方もいずれ広く知られると信じております」。
 「そこでだ、キミはこの店に出入りする“画家”たちがどんな連中で、どんな画風かを調べて報告してほしい。探偵、いや調査研究を生業とするキミには、“Mission Impossible” ではあるまいて」と、にべもない。
数日後、くだんの画廊喫茶とやらに学生三人ほどを連れ立って出かけた。生憎、“いずれ広く世に知られる” はずの画伯には御目文字叶わなかったものの、それでも収穫はあった。
 まず、個展の費用は、一週間でコーヒー五〇〇杯ほど。これが銀座の画廊なら二〇〇万円を下らない。
つぎにこの喫茶店──もとい、画廊──に出入りする画伯の何人かは還暦をとうに過ぎたが、年金をもらえない者がいるらしい。聞けば、年金掛金未納だから当然の帰結ではある。
 さらに、画風はさまざま。ママさんは「東大出、藝大出なんて威張っているだけでまともな連中ではない」と決めつけて引き取った。「わたしは二〇年以上、こうして無名の画家たちを見守ってきました」。
その口調は芸術の保護者然、いいや、世を睥睨し、人を見下すかような物言いだった。有り難いご高説を拝聴して支払いを済ませると「領収書は?」と訊かれたので不要と答えた。すると、「ここにお越しの方には領収書を発行しております。お金、大切じゃないんですか?おかしな人」と宣 った。
店を出てから連れの一人が言った。「あそこのお客さんは、コーヒーでああなら、コンビニ弁当を二つ買って自分で食べても、某氏との打合せの食事代って税務申告するんでしょうね」。
 「経費で落ちません!」とほざく野暮天のいない絵画業界では、だれもが「職業は画家です」で済むのだからお気楽だが、筆者のような大学教員も、存外、似た者同士かもしれない。
 ただ自称 “画家” さんたちは、流行語を使えば「承認欲求」、つまり、一度だけでいい、注目されたい、評価してもらいたいという欲求のあらわれか、はたまた売れようが売れまいが「画家を目指す自分が大好き」という自己愛的防衛に長けた御仁だろう。だから、罪はない。
ところがどっこい、大学教員にはそうは問屋が卸さない。読者諸賢の中に、その昔、某国立大教授にして高名な美術評論家の、西洋美術史についての 「語り」に疑念を抱いた向きが少なくないと確信する。美術史を専攻したわりには西洋美術史家の必須アイテム、ラテン語がこのセンセーの口から発せられたことが殆どなかったからだ。ウンベルト・エーコ好きには考えられない。
 明治生まれの美術史はもとより、西洋古典を開講する恵まれた学問的環境にありながら、ラテン語の資料一つ登場しないのは、斯界ではラテン語が半ば必須化している現代とは時代が違うと言われればそれまでであるが、やはり腑に落ちない。いやしくも天下の某国立大学で教鞭を執った御仁だから、よもや「騙り」はあるまいと、世人は信じているようだ。
 だが、それは妄信でしかない。ことほどさように、ギリシャ語のできないギリシャ哲学者、ラテン語のできない西洋古代史や中世美術史、はては近世政治・社会思想の専門家と称するセンセーたちは、自らの知識や教養の正統性を何によって担保するつもりだろうか?
 このようなセンセー連が教場や講演会で「語る」言葉が「騙り」──少なくとも誰かさんの説のコピー──ではなく、 “うつろな心” の持ち主でもないと言い得るのは、はたしていかほどだろうか?
[なかがわ たつひろ/青山学院大学]