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戦前の山村にあった電力改革のモデル

西野 寿章

 二〇一一年三月の巨大地震に伴う東京電力福島第一原子力発電所の放射能放出事故の発生によって、原発の安全神話が崩れ、電力会社の信頼性を失うことになった。放射能は、事故発生時の風向きによって原発の北西部に流れ、帰還困難区域では全住民が避難を余儀なくされた。一方、原発の南西部方向にも放射能が拡散し、筆者の勤務校のある群馬県にも放射能が達し、碓氷峠を越えて長野県軽井沢町にも達した。群馬県では、冬の風物詩である榛名湖のワカサギの持ち帰りが二〇一八年一月まで禁止され、二〇一九年九月の群馬県の調査結果によれば、依然として、基準値を超えて被爆しているイノシシ、ツキノワグマが確認されている。
 原発事故によって、戦後はじめて、日本の電気事業のあり方が問われ、太陽光発電を主とした再生可能エネルギーの本格的普及の契機ともなった。政府も固定価格買取制度を制定して、その普及を図った。事故後、学界では多様な分野において原発の是非をめぐる議論が展開され、新聞社では脱原発、原発推進の立場を鮮明に打ち出した論評が繰り広げられてきた。
 日本のエネルギーシステムを考える際、福島原発事故後、脱原発を決めたドイツの都市、農村におけるエネルギー政策や協同組合の取り組みは参考になることが多い。ヨーロッパでは、国境を越えて送電線網が構築されていることから、託送方式によって国境を越えて電力の購入が可能となっている。こうした仕組みによって、チェルノブイリ原発事故後から、脱原発をめざし、自然エネルギーだけを供給する電力会社が山村に誕生し、話題となってきた。都市部に住む国民から支持され、自社発電量を遙かに上回る電力を輸入して供給している。
 日本では、事故後、首相経験者、首長経験者の中から脱原発を目指す動きも出てきた。政府のエネルギー計画では、再生可能エネルギーの普及をめざすものの、原発をベースロード電源として位置づけ、そうした計画の是非についても活発な議論が行われた。しかし、時間の経過とともに、議論は沈静化してきたように感じる。
 筆者は長年にわたって、戦前の日本の主に山村に展開していた町村営電気事業と電気利用組合が成立した地域的条件の解明に取り組んできた。自主財源の乏しかった戦前の山村において、どのようにして電灯を灯したのか、この疑問を解いてきた。後発の町村営電気の中には起債を財源としたケースもあったが、早期に設立された地域では、経済性に優れた町村有林や集落の共有林、住民の寄付が財源の全部、あるいは一部となっていたケースがあった。また、村営電気の設立について村民大会を開催したケースも見られた。こうして設立された町村営電気事業の利益は自主財源となって脆弱な財政を補完し、住民が出資した電気利用組合では、規模によっては配当を実現していた。戦前の農村社会は不平等な社会ではあったが、筆者が調査した事例では、地域電化のための指定寄付金は所得や財産規模に応じて算定されていた。小作層にとっては重税だった可能性があり、検討の必要性が残されているが、地主層は高額寄付者であった。
 戦前の電気事業は、自由放任の下に発達したことから、電灯会社の配電区域に組み入れられなかった地域では、財源さえ確保できれば地域で電化を図ることが可能であり、かつ小規模でも経営も成り立ち、住民と行政が一体となって社会資本が整備され、エネルギーコミュニティが形成されていた。住民は電気事業経営に高い関心を向けていた。近年、「新たな公共」の必要性が指摘されているが、戦前の山村社会にすでに存在し、官民一体の分散型再生可能エネルギーシステムが構築されていた。これは、地域ガバナンスの一つの型と捉えることもできる。しかし、一九三八年の電力管理法、一九四一年の配電統制令によって消滅させられた。
 よく言われる「エネルギー問題の国民的議論」は、現状では議論できる場所はどこにもない。それは、戦前の山村のように地域電化を官民で実現して、エネルギーコミュニティが形成されてこそ可能となるのではないだろうか。一九四七年に福島県が先導して推進した配電県営化運動が実現していたならば、県単位にエネルギーコミュニティが形成され、今とは異なった地方自治の姿が形成されていたかも知れないと思うことがある。戦前の山村には、今日の電力改革のヒントとなる重厚な地域電化の歴史があった。
[にしの としあき/高崎経済大学教授]