いま戦傷病者について考える意味

松田 英里

 かつて日本の街角では、義手や義足をつけた人びとが楽器を手に募金活動をする光景がみられた。「傷痍軍人」を目にしたことのある人は、彼らが奏でる哀しげなメロディーと、身体に刻まれた痛々しい戦争の傷痕を憶えているのではないだろうか。
 勝敗にかかわらず、戦争には必ず戦死者や傷病者がつきものである。それは、まがりなりにも「勝利」をおさめた日露戦争も同様である。「傷痍軍人」という呼称が広まる前、戦場で傷を負い、あるいは疾病にかかった元軍人は「癈兵」と呼ばれた。「癈兵」という用語に象徴されるように、彼らに向けられた当時の社会の眼差しは、多分に差別的な要素を含んでいた。満州事変以降、「士気」の維持のために「傷痍軍人」という呼称が定着することになる。
日露戦争後、戦死者の遺家族と傷病を負った「癈兵」の生活困窮が社会問題化した。莫大な外債を抱えたうえに、日露戦争後も軍拡や植民地経営などに財政をつぎ込んでいく政府と軍に、戦死者遺家族や「癈兵」の生活を顧みる余裕はなかった。戦争の熱気が冷めるとともに、戦争中は「癈兵」を「名誉の負傷者」と称えた人びとも、冷淡な態度をとるようになった。国家と社会に冷遇され、存在を忘却された「癈兵」。彼らは、何を思い、日露戦争後の日本社会を生きてきたのだろうか。このたび上梓した『近代日本の戦傷病者と戦争体験』は、日露戦争の「癈兵」の言動や行動に焦点をあて、彼らの戦場体験・戦争体験の固有性を明らかにしようとするものである。
 社会復帰のための支援も十分に受けられないまま社会に放り出された「癈兵」は、わずかばかりの補償である軍人恩給を受けながら、その多くは苦しい生活を余儀なくされていた。しかし、第一次世界大戦時の物価高は、ぎりぎりの水準で保たれていた「癈兵」の生活をさらに困窮に追い込んだ。瀬戸際まで追い込まれた「癈兵」は、恩給増額と待遇改善を求めて運動をはじめる。
 「畢竟政府は我々を戦塵の中に送つて不具者として早く死ねと仕向けるやうなものである」(『報知新聞』一九二二年三月一六日付)。
「社会は帰還一、二年の間は名誉の軍人だとか何とか謂つて呉れたが其後は癈物同様な待遇より与へないではないか」(『北海タイムス』一九二五年八月一七日付)。
 上記は、運動に参加した「癈兵」の発言である。国家最高の義務である兵役義務を果たし、戦場で傷病を負ったことに誇りをもつ「癈兵」は、彼らを一向に顧みない国家と社会に真正面から批判を突き付けている。
こうした言動からは、恩給増額と待遇改善という要求を通じて、「癈兵」の戦場体験・戦争体験と彼らが負った傷病の意味を国家と社会に問いかけたいという意図もうかがえる。なんのために自分たちは戦ったのか。なぜ貧困や差別に苦しめられなければならないのか。自分たちの払った犠牲はなんのためだったのか。「癈兵」が日露戦争後にたどった軌跡は、そうした問いへの答えを探すためのものだったように思われる。その点は、アジア太平洋戦争後の「傷痍軍人」も共通している。だが、「癈兵」が自らの戦場体験・戦争体験を位置づけていく過程では、彼らのなかの「帝国意識」が大きく影響していることに注目する必要がある。
 なお、先の「癈兵」の発言にみられるように、「名誉の負傷者」という国家や社会が「癈兵」に付与した像は、時に「癈兵」自身によって要求の実現をはかるための正当化に利用された。これは、貧困からの脱却をはかろうともがく「癈兵」の無意識の戦略なのだろう。その一方で、「癈兵」が要求を勝ち取るため主張の正当性や優位性を唱えることは、その他の障がい者や貧困者との差別化をはかるという側面もあった。「癈兵」の問題を考える際に、一般の障がい者や貧困者との差別化や分断という問題も等閑視できない。本書では、この点にも着目している。
「傷痍軍人」の高齢化がすすみ、日本傷痍軍人会も解散して久しい。日露戦争の「癈兵」がそうだったように、人びとの記憶から「傷痍軍人」も薄れつつある。戦傷病者が再び生じかねない事態を起させないためにも、いま日露戦争後の社会を生きた「癈兵」に焦点を当てることは無意味なことではないだろう。
[まつだ えり/共愛学園前橋国際大学兼任講師・政治経済研究所研究員]