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  • PR誌『評論』215号:「生きること」を歴史から問う② 明治大正期の出稼ぎ漁夫の実像を求めて

「生きること」を歴史から問う② 明治大正期の出稼ぎ漁夫の実像を求めて

中村 一成

 雇用の流動化が推し進められる今日の日本において、それがもたらす社会の分断や国民経済の地盤沈下への批判・抵抗とは別の文脈で、安定した一元的雇用には依らない生き方を自覚的に模索しようとする動きがある。『半農半Ⅹという生き方』(塩見直紀、二〇一四年、筑摩書房)であるとか『ナリワイをつくる』(伊藤洋志、二〇一七年、筑摩書房)といった問題提起がそれであるが、そこでは終身雇用モデルの崩壊を前提として、複合的な生業を営みながら生きていくことが提唱されている。しかし、終身雇用モデルそのものが戦後日本の企業社会に特有の歴史的産物であり、同時代においてもそこから零れ落ちる人々が数多く存在したことを顧みれば、多元的な収入を組み合わせながら生きるというのは、むしろありふれた生き方であったともいえる。
 そうした生き方は、個人にとって、あるいは家族にとって、生きのびるためにやむを得ず選択されたものかもしれないし、より良く生きるために、むしろ積極的に選び取られたものかもしれない。またそのためには、生きる拠点を離れて移動しながら生をつなぐ、という選択もあり得た。その典型は出稼ぎである。
 私はここ数年、数多くの出稼ぎ漁夫が登場する史料である「柳田家資料」(北海道立文書館所蔵)に取り組んできた。これは北海道根室地域の漁業者であった柳田商店の、明治大正期を中心とする史料群である。この時期の北海道漁業、とりわけ鰊漁は、その季節性のために、大量の出稼ぎ労働力を必要とする産業であった。当初は漁夫への報酬体系、なかでも医療費の支払われ方を分析するために着手した史料であったが、理解が進むにつれて、漁夫一人ひとりの「生きること」に関心が広がっていった。そして、彼らはなぜ出稼ぎに来たのか、そして地元と根室とを移動しながらどのように生きていたのか、ということを考えるようになった。
 柳田商店で働いた出稼ぎ漁夫たちの実像に迫るべく、二〇一八年の夏から秋にかけて、私は多くの漁夫の地元であった能登半島東岸から富山湾西岸にかけての地域で史料調査を行った。そして富山県氷見市において、市史編纂過程で蒐集された地域史料が、困難な自治体財政に制約されながらも、担当者および関係者の尽力によって保存されつづけていることがわかった。地域の歴史をつなぐ役割を果たしつづける方々に感謝しつつ、ここに断続的に通うなかで、とうとう柳田商店への出稼ぎ者と一致する人物の史料と出会うことができた。
地租名寄帳のなかに発見したこの人物は、当時の氷見郡窪村において、一九一〇年には田一町三畝と畑六反九畝の土地を所有していた。一九二二年になると、これが田一町七反、畑三反六畝となり、所有規模が拡大する。自作農として自立し得る規模の土地を氷見で所有するこの人物が、根室の出稼ぎ漁夫名簿に登場することの意味は何か。
 単純に考えれば、この人物は氷見の厳しい冬の農閑期に就労先を求めて鰊漁の出稼ぎに向かったのだ、と理解しそうになる。しかしここで想起すべきは、北海道への「漁業出稼ぎの出稼ぎ期間は農閑期ではなく、むしろ春先の農繁期であった」という玉真之介の注意深い指摘である(玉「戦前期の漁業出稼ぎと青森地方職業紹介事務局」『市史研究あおもり』二、一九九九年三月)。実際に、柳田商店の『雇夫名簿』から雇用期間の記載を拾っていくと、「三月一五日ヨリ六月二五日迄」とされている者がとても多い。これは明らかに鰊漁の漁期に対応したものであり、田起こしや育苗、そして田植えのシーズンと重なっているのである。
 この人物は、一九一〇年から一九二二年にかけて畑を減らして田を増やしているのであるから、水田経営の拡大に展望を見出していたことになる。そのことと、春の農繁期と重なる鰊漁への出稼ぎとは、どうすれば整合的に理解できるのだろうか。家族労働力の配分という農民家族経営の視点から検討する必要がある。
 この問いの答えは未だみつかっていないが、「柳田家資料」には、ほかにも出稼ぎ漁夫の雇用や生活の実態が垣間見える史料が大量にある。そうした史料の検討を通じて、明治大正期の出稼ぎ漁夫にとっての「生きること」の内実と展望、そしてその限界を考えてみたい。詳しくは、大門正克・高田実・長谷川貴彦編著『生きることの問い方(仮)』で論じることにしている。
[なかむら かずなり/上武大学准教授]