商業社会の告知者マンデヴィル

鈴木 信雄

 人格においては誠実であり、生涯を通じて廉直にして高潔な士であり、しかも古典・古代の作家に通暁するとともに、天分に恵まれ、機知に富み、見識がある人であったと評されたマンデヴィルは、『蜂の寓話──私悪は公益なり』において、来たるべき「世俗の世界」である商業社会(文明社会)の本質を、冷徹な観察眼によって分析し、これまでの世界とは全く異なる世界に、西欧世界が向かいつつあることを人々に告知した。
 国家を世俗的に偉大なものに導く秘訣を明らかにせんと、マンデヴィルが十八世紀初頭に開示して見せた「世俗の世界」に関する探究は、中世から近代にかけての「神中心の世界」から「人間中心の世界」への移行と相即的に、人間を「聖の世界」に生きるホモ・リリギオス(homo religiosus)としてではなく、「俗の世界」である商業社会に生きるホモ・エコノミクス(homo economicus)として捉える視点の変化を的確に捉えたものである。
 彼の思想的営為は、後に、ヒューム、モンテスキュー、ルソー、ハチスン、スミスなど十八世紀を代表する多くの思想家によって批判的に継承されていき、社会科学が成立する場を形成することになる。その意味で、『蜂の寓話』は近代社会科学の生誕の場を醸成した作品であるとともに、ハイエクが「自生的秩序論」の先駆として、ケインズが「貯蓄のパラドックスの最初の発見」として、マルクスが「国際分業論のスミスに先立つ考察」として指摘しているが如く、十九世紀、二十世紀を代表する社会科学者にとっても社会認識の手立てを構想する上で一つの想源でもあり続けた。
 だが、オックスフォード大学版『蜂の寓話』の編者であったケイ教授が述べているように、本書は社会の根幹をなす道徳や宗教を破壊するという廉で、多くの反対者から根も葉もない誹謗中傷を受け続けた。そうした状況下で、マンデヴィルは、「視野を拡げることができ、手間暇かけて出来事を繫いでいる連鎖の全貌を見渡そうとする者は、ありとあらゆるところで、卵から鳥が生まれ繁殖するように、ごく自然に悪から善が生じ増殖していることが分かる」にもかかわらず、「短慮な大衆は、さまざまな原因の連鎖における一つの連なり以上のものを滅多に見つけることができない」と、人間の現実のあるがままの状態を冷徹に直視し、「抽象的に考えることができ、知的レベルが高い少数者だけに」語り続けるのだと腹を括った。だが、当時においても、マンデヴィルの斬新な思想は、時流に流されず、事の本質を見抜くことができる、ベンジャミン・フランクリンやサミュエル・ジョンソンをはじめとして、慧眼を持つ思想家からは好意的に受け容れられた。
 私悪は公益なり」という逆説的主張で有名な『蜂の寓話』において、マンデヴィルは、聖職者ではない世俗の人間が築き、発展させていく社会のさまざまな事象の因果の連鎖を注意深い観察者の眼によって記述し、経済的事象など社会のさまざまな事象は、特定の個人の計画や意図から独立したところで、その意味で世俗に生きる人間の「意図せざる」結果として形成されるものであることを、情念の世界に分け入り、プライドであるとか承認願望などといった人情の機微に関説しながら、「実際の人間はどのようなものであるか」という視点から論じている。当時、プライドという情念、あるいは、追従、羨望、虚栄心、貪欲などといった邪悪とされている情念こそが、道徳的であると一般に称せられている行動の、さらには社会・経済生活を活性化するための営みの唯一の信頼すべき動機であると主張する思想家たちが存在したが、マンデヴィルは、こうした思潮の代表者であった。「私悪」とされているものと、「公益」とされているものとの間に存在する必然的な繫がりを辿ろうとする巧妙さと緻密さにおいて、マンデヴィルはあらゆる先駆者や大部分の後継者を凌いでいた。彼にとって、美徳そのものが、通常、悪徳と呼ばれているものの申し子であるということほどにリアルで、深刻な逆説はなかった。こうした逆説的な彼の主張の背後には、恐らく、「国家から悪徳が一掃されるならば、それは慶事である」が、「残念ながら、それは不可能である」とする彼の「深い悲哀」と「諦念」が在った。
[すずき のぶお/千葉経済大学教授]