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  • PR誌『評論』211号:縁切り一筋五〇年② 落語『駆け込み寺』──柳家小満ん師匠を聴く(一)

縁切り一筋五〇年② 落語『駆け込み寺』──柳家小満ん師匠を聴く(一)

髙木 侃

私が落語の演目に「駆け込み寺」があることを教えられたのは、中央大学大学院生のころで、修士論文を書き上げるのに没頭中の、ほぼ五〇年前のことであったろうか。
学部時代に所属した部活は能楽研究会で、謡と仕舞に明け暮れる毎日、邦楽(法学)部謡曲科宝生流専攻などうそぶき、「能観に行くか」「飲みに行くか」で、もっぱら飲み歩いていた。院生になっても研究室と部室が近かったので、ちょくちょく顔を出していた。伝統文化に親しんでいたせいか、部員のなかには数人の落語通がいた。そのひとり観世流の後輩・斎藤隆壹君からラジオで「先輩の研究している縁切寺の落語を聴きましたが、知っていますか」と問われたのが最初である。その頃は修士論文を書き上げるのに没頭中で、深く詮索しなかった。
論文提出後、「落語の演目なら三遊亭円生(六代目)師匠をおいてない」ということで、出演中の人形町末広の楽屋に電話した。電話口に出て取り次いでくれたのが春風亭柳朝(五代目)師匠であった。円生師匠は「演目としても、枕でも聞いたことがない」由であった。ここまでで私の落語「駆け込み寺」探索はひとまず終わることとなる。
その後、すでに廃寺の満徳寺が縁切寺満徳寺資料館として、一九九二年一〇月に開館したが、準備のためもあって、四月に私は請われて館長に就任した。前回にふれた「縁切厠」のみならず、アクセスの悪さを克服するためと知名度アップのために、さまざまなイべントを企画した。
三くだり半の企画展をはじめ、特別展、所在地「徳川」にちなんだ講演会を徳川大学として開催、伝統文化講座と称する琵琶の会、大衆文化講座は落語会である。八回目の落語会は、再度の来演となった柳亭市馬師匠(現落語協会会長)。口演後、落語「駆け込み寺」の存在を尋ねた。すると知っているよ、テープを送ってやるとのことで、後日MDが届いた。聴いてみるとなんと人形町の寄席で電話に出た特徴のある声の主、柳朝師匠の持ちネタであった。ようやく三十数年越しの願いがかなった。
どうしても一度生で聴きたいと思い、調べたところ、現在口演されているのは柳家小満ん師匠だけのようであった。昨二〇一七年の落語会に出演予定の柳家はん治師匠(資料館に最多七回来演されている)に小満ん師匠の口演をお願いしていただいた。しかも一席は「駆け込み寺」との依頼を、快く引き受けてくれた旨連絡があった。早速お会いすることを約束し、七月中席一九日、池袋演芸場に楽屋見舞いに訪れ、一〇月一四日の落語会へ依頼をあらためてお願いした。
復元本堂での落語会当日、トリはもちろん小満ん師匠の「駆け込み寺」。当日はテープ録音の許可をいただき、それに自著『小満ん師匠口演用 てきすと その二十三』(二〇一七年一月発行)に加えて、柳朝師匠の音声をも参酌して、マクラの一部を紹介しよう。

「いざ鎌倉」なんてえ言葉をございますが、これは謡曲の『鉢木』、あれから出た言葉だそうでして、一朝事があった時に使う言葉でございますが、鎌倉の執権でございました北条時頼が出家を致しまして、最明寺入道時頼となって関八州へ廻国に出ましたが、その途中、上野ッてえますから、今の群馬県高崎の佐野のあたり来たときに、おりからの大雪でございまして、佐野源左衛門常世という、関東武士のお宅へ一夜の宿を求めましたが、この方は元々はそのあたり一番の御領主でございましたが、親類縁者に自分の領地を騙し取られて今はもう落ちぶれているんですが、そういう一夜の宿。真冬でございまして、夜分寒くなってきた時にもう、貧しい暮らしをしておりますから火にくべるものが無い。そこで、佐野常世が、秘蔵にしております、梅、松、桜、これを惜しみながら断ち割りまして囲炉裏にくべて、もてなしてくれましたので、時頼が大変に喜んで
「梅、松、桜で、赤よろし(花札の役・赤短のこと)」ッて、そんなことはまぁ言いやしませんが。

こんな調子で続きますが、鎌倉が古くから栄え、名所、古跡、神社、仏閣、いくらも有名なものがあるが、なかに松が岡東慶寺という名刹がある。臨済宗円覚寺派のお寺で、ここが一名駆け込み寺、あるいは、「縁切寺」ということを古川柳を交えて面白く聴かせる。これがマクラ。
紙幅が尽きてここまで。本題・内容は次回がよろしいようで、……
[たかぎ ただし/専修大学史編集主幹・太田市立縁切寺満徳寺資料館名誉館長]