憲兵関係史料の残り方

荻野 富士夫

この度、『日本憲兵史──思想憲兵と野戦憲兵』(発行・小樽商科大学出版会、発売・日本経済評論社)を刊行することができた。憲兵関係史料の収集とその読解を通じて感じたことを記してみたい。
一九四五年八月の敗戦と解体、責任追及を予期して、憲兵は証拠隠滅ともいうべき徹底した文書の焼却をおこなった。憲兵司令部が八月一四日の通牒で指示した「書類整理」とは「敵手に渡り害あるもの、例えば外事、防諜、思想、治安等の関係文書、国力判断可能の諸資料、並に秘密歴史(二、二六等)」や人事関係書類の焼却処分という方針だった。東部憲兵隊(元東京憲兵隊)九段分隊では「司法班で保管していた甘粕大尉事件、五、一五事件、相沢中佐事件、二、二六事件を始め分隊で取扱った数々の歴史的犯罪の検証調書の写や二、二六事件叛乱将校野中大尉の遺書等」を焼却したという。二〇日の憲兵司令部の再度の通牒では、机の引き出しの奥に挟まった紙切れなども見落とすなという徹底ぶりである。
完全焼却の厳命の一方で、一四日の通牒では「特に将来に亘り保存を可とするもの(例えば左翼要注意者連名簿等)は巧妙に他に移しおくを一案とす」という指示もあたえていた。おそらく特高警察側にもそうした動きがあったはずだが、時期をおいての抑圧取締り組織の再起を想定していた。実際にそうした隠匿がなされたのか、不明である。
こうした徹底した焼却処分にもかかわらず、憲兵関係史料はある程度残存することになった。憲兵個人による所蔵保管とは別に(死後、遺族の手により古書店などに譲渡するケースもある)、関東憲兵隊司令部跡から「発掘」された焼け残りの資料群はその際たるものといえる。あまりに膨大な量を短期間で処分する大慌ての作業だったため、全部が燃え切らなかった。この焼け残り文書の一部は、現在それらを所蔵する吉林省档案館などによって『日本関東憲兵隊報告集』として刊行されている。拙著『日本憲兵史』や共編著『「満洲国」における抵抗と弾圧』(発行・小樽商科大学出版会、発売・日本経済評論社、二〇一七年)は主にこれらに負っているが、全体の公開が望まれる。
防衛省防衛研究所図書館に所蔵されている残存憲兵史料のうち、米軍により戦場で捕獲・押収された南方派遣の憲兵隊史料はかなりの点数にのぼる。とりわけ、激戦であったフィリピンに集中している。たとえば、「イロイロ派遣憲兵隊 執務参考綴」(一九四二年)や「タクロバン憲兵分隊作命綴」(四三年)などのような前線部隊の文書には、表紙にシミや泥のあとも残る。おそらく戦闘過程において焼却処分などもできないまま放置・遺棄されたのち、米軍に押収され、「返還文書」として戻されたものである。フィリピン憲兵隊司令部との指示・報告などのやりとりや日常の作業日報など、憲兵の第一線における生々しい活動実態を伝える。
特高警察とは異なる憲兵関係史料のもう一つの特徴は、憲兵教育・訓練のため教習隊や憲兵学校で使用された教科書や演習資料などが多く残されていることである。前者として憲兵練習所『憲兵実務教程(行政警察)』(一九三七年)・陸軍憲兵学校『憲兵実務教程(高等警察)案』(同年)・『憲兵要務教程(服務)案』(三九年)・支那駐屯憲兵隊教習隊『戦時勤務教程草案』(四一年)・『滅共実務教案』(同年)など、後者として憲兵司令部『名古屋地方憲兵将校現地演習記事』(一九三五年)・同『昭和十四年度甲種学生 甲種学生横浜箱根地方現地演習指導教育案(外事警察)』(三九年)などがあげられる。
特高の教育訓練は現場での実地に即したいわば職人的な伝授、あるいはたたき上げという傾向が強く、したがって取締り実務のマニュアルやノウハウを詳細に記載した教科書的なものは少ない。憲兵の場合は軍隊の他の兵科と共通すると思われるが、半年ないし一年を費やして憲兵上等兵となる初任者教育や各憲兵隊長・分隊長となる尉官向けの教育が、法学関連の講義や実務の実践的訓練の系統的なカリキュラムとして整備・実施された。四〇年代のものには、実践的なスパイ使用や拷問についての留意点やコツなども詳細に記載されている。
[おぎの ふじお/小樽商科大学名誉教授]