ケインズ──哀傷

牧野 裕

ケインズは、1941年から1946年までの間に、対米経済交渉の事実上の責任者として、実に6回渡米している。多くが戦時中のことである。彼は、持病の心臓病に悩まされながら、米国側と渡り合ったのであった。これが彼の命を縮めることとなったのは、いうまでもない。事実、1946年3月、サヴァナでのIMFと世銀の設立総会を終えて、身も心も疲れきって帰国したケインズは、4月、ティルトンで、心臓発作を起こし、その偉大な生涯を閉じたのである。
彼のかかっていた心臓病は、「感染性心内膜炎」と呼ばれる、今日でも治療の困難な、極めて稀な病気である。心臓の中にある弁や内壁などに、細菌が付着し、感染を起こすという難病である。心房細動、心拡大、心不全による息切れ、呼吸困難、むくみなどの症状が現れる。そうして、心臓の構造の破壊や脳梗塞などが引き起こされる。
かえりみれば、1936年から1937年は、ケインズにとって、栄誉ある『一般理論』の刊行という、その生涯を彩る最高の輝ける日々であるとともに、彼を苦難の奈落に突き落とした宿痾の病を得た時期でもあった。
ケインズは、『一般理論』の執筆で、心身ともに消耗した。刊行後、健康の優れない日々が続いた。だが、彼は、休む間もなく、精力的に、『一般理論』に対する論評に応じ、あるいは、自説のさらなる展開を試み始めた。その活動は、驚異的で、研究と教育の領域にとどまらず、美術、演劇など多方面に及んでいた。
だが、1936年の夏の終わりに、彼は、胸の痛みと呼吸の困難を、はっきりと自覚するようになった。身体は悲鳴をあげていたのである。それでも、彼は活動をやめなかった。秋には、妻リディアの家族の住むレニングラードを訪れ、その途中、講演のためストックホルムに立ち寄るという離れ業を見せた。帰国後も体調の優れぬケインズは、12月、インフルエンザで寝込んだ。その際、彼は、心臓に、今までにない異変を感じた。
翌年の1月末には、階段の上り下りも、ハーヴェイロードの両親のところでの昼食会に出向くのも、困難になっていた。ケインズは、深刻な心臓病にかかっていたのである。しかし、家庭医は、胸のリュウマチとインフルエンザの後遺症と診察した。
2月にケインズは再びインフルエンザにかかった。ケインズとリディアは、療養のため、3月13日、保養地カンヌに向かった。だが、これが裏目に出た。胸の痛みは取れず、歩行も困難になった。心臓の発作が頻発し、3月15日には、40〜50分続いた。
急遽帰国したケインズは、今度は、叔父の診察を受けた。これも、ひどい誤診であった。
5月初め、ケインズは倒れた。5月20日になって、叔父は、ようやくケインズが、重篤な状態にあり、精密検査と休息が必要であると認めた。
6月18日、ケインズは、ウェールズ北部にある、最新の医療施設として高名な、廃城ルーシンキャッスル内の医療施設に入院した。入院後の検査で、ケインズの心臓が連鎖球菌にひどく侵されていることがわかった。だが、抗生物質がなかった当時、ルーシンキャッスルの医者が指示した治療法は、ただ安静を保つだけであった。
幸いにも、滞在中に、ケインズの容体は徐々に改善に向かった。七月末、短時間の歩行が、8月末には、机に座り書信を認めることが、許可された。
ケインズが退院したのは9月23日であった。もちろん、完治したわけではなかった。ロンドンにしばらく滞在したのち、9月30日、ティルトンに向かった……。
ケインズは、小康を得たものの、命の危機を脱したとはいえなかった。ケインズの頼みはリディアであった。彼女は、看護師、秘書としても、ケインズに寄り添い、ケインズの活動を支えたのであった。
ケインズが、戦争の暗雲が立ちこめるなか、難病に侵されながら、表舞台に復帰し、戦時中は、対米交渉の主役を演じたのは、奇跡としかいいようがない。
ドイツの軍事的脅威のなかでの大西洋横断自体が命がけであった。初めのうちは、就航間もないボーイング社のクリパーに乗って、島嶼を縫うように大西洋を横断したのであった。
死を賭して交渉にあたった彼の活動を、国際通貨金融秩序が大きく変容しつつある今日、人々は、どう評価したらよいのであろうか。旧著『IMFと世界銀行の誕生』(日本経済評論社、2014年)が、この一助となれば幸いである。
[まきの ひろし/津田塾大学名誉教授]