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三行半研究余滴 23 御祝にもらった三くだり半──私の離縁状所蔵事始

高木 侃

今回の余滴がお手元に届くときには拙著『写真で読む三くだり半』が日本経済評論社から出版の運びとなっている。
本年が私の徳川時代の離婚法研究、つまり三くだり半と縁切寺の研究を始めて50年になること。さらに私所蔵の離縁状も224通になったことなど、節目の年(後期高齢者の仲間入りも果たした)に上梓できたのは、栗原前社長(高校の友人)からのすすめによるものである。
私事にわたって恐縮だが、1974年の春、私は初めての子を半日で亡くした。ダメおやじには子も授からないのかと自責の念にかられた。そのときに思い出したのが穂積重遠博士の大著『離婚制度の研究』である。博士はその序文で、三歳半の長男を病で亡くされたことにふれ、「私に取って実に大打撃であります。併しそれが大打撃であっただけそれだけ、これで挫折してはならぬと私は奮起しました。奮起して私は此際我子の記念に何か一仕事したいと考えました。否、一仕事せずにはいられないのであります」として、これまでの論文を一冊にし、我が子の霊に供えられた。そして『おとうさまのごようのごほん』にさわることを禁じられていたご子息が、この本の大きさ・厚さ(4・5センチ、約900頁)を喜んで得意そうにページをめくる姿を想い浮かべたそうである。
この言葉に励まされ、当時縁切寺満徳寺の研究に専念し、その資料収集に没頭していた私は、県重文の満徳寺文書(川越家所蔵)のほかにも30数点の新史料を見いだしていた。これで一書として史料集を編もうと決意し、1976年7月、成文堂から出版したのが『縁切寺満徳寺史料集』である。解題67頁、史料編156頁、223頁の小著であった。すでに一年半ほど過ぎており、私の自己満足にすぎないものであったが、半日のはかないわが子の供養になったものと信じている。
このころ所蔵離縁状などの閲覧・複写を許されて通っていた上州文芸研究家・篠木弘明氏に史料集を謹呈したところ、「自分の持っている文書でほしいものをなんでも一つ出版祝にやる」といわれ、躊躇なく、四つのキーワード「深厚・宿縁・(浅)薄・不(有)私」を含む満徳寺離縁状に酷似の三くだり半をおねだりした。私の「三くだり半所蔵第一号」である。その後、離縁状20数点と執心切れ一札すべてをいただいた。拙著に俳山亭文庫旧蔵とあるのがそれである。
左にいただいた離縁状の写真と釈文のみ、今回は紙幅の関係で掲げるにとどめた。その大きさはタテ23・5センチ、ヨコ20・0センチメートルである。
   一札之事
今度八重儀、深厚之宿縁薄   
及離別事不私、何方江縁組   
有之共、少茂構無御座候、仍而
一 札 如 件
      上毛佐位郡
         伊与久村
 弘化二年十一月日  録 弥 太?
    倉賀野沢
        谷 五 郎殿
その後も調査を続け、収集・整理した三くだり半は現時点で1306通になり、所蔵も227通になった。離縁状取得は、当初は古書店のカタログから、最近はネットオークションである。オークション通の教え子・土門洋介君が見事に落札してくれる。おそらく彼の手を経た三くだり半が50通近くになろう。〈私の三くだり半〉所蔵の経過である。
日本経済評論社の出版物は、書評紙(誌)面で度々取り上げられる良書が多いとはいえ、売り上げには結びつかないようで、むしろそのことを誇りにしているのではないかとさえ思える。拙著の内容はさておき、素材としての三くだり半はそれぞれに力強く面白い。ご購読を切に願う(図書館への納入手続きでも)。
[たかぎ ただし/専修大学史編集主幹・太田市立縁切寺満徳寺資料館名誉館長]