複合危機とは何か

紺井 博則

人間の体内でも二つの症状が別々の原因で発症している場合と、一つの原因でまったく異なる二つの症状や「合併症」が現れている場合とでは、それぞれの治療方法と難易度は異なるであろう。経済現象としての複合危機もこの例と似たところがあるかも知れない。
複合危機でいう「複合」の内実は、一般的には実体経済危機と金融危機・財政危機とが結びついた事象を指している。この二つの危機について、私たちは第二次世界大戦以前に周期的に繰り返された恐慌のたびに実体経済危機が金融危機(信用危機・銀行危機を含む)に波及したことを知っている。その上で今日の資本主義を特徴づける複合危機の「新しさ」「現代性」はどこに求めるべきであろうか。その分析の対象として格好の素材となったのがサブプライムローン問題を契機とした2008年の世界的金融・経済危機である。
この危機は、2000年代前半までの米国の住宅バブルの形成という実体経済の加熱に根を持ってはいたが、同時にまた金融危機・銀行危機の過程で金融の自由化・証券化という現代金融危機の「新しい顔」を象徴していた。そしてこの二つの部面を連携させた靱帯が「経済の金融化」という現代資本主義の特質なのであり、同時に現代の複合危機の「新しさ」であるといってもいいだろう。「経済の金融化」の推進要因は、とくに先進諸国が各国内での生産・消費・再投資を軸にした自立的な成長循環を描けなくなった蓄積の変容に求められる。例えば、大企業をはじめとした企業の利益源泉の変化や企業財務の変貌、家計部門における消費性向の低迷と所得の金融流通へのシフト等々をあげることができよう。したがって80年代以降の現代資本主義の特徴を、「金融・資本主義」、「金融に依存する資本主義」、「金融の肥大化」などとして捉えることは、08年の危機以降の約10年を振り返っても間違いではないが、現代の複合危機を生み出す実体経済の危機と金融危機との新たな連関を見失ってはならないだろう。
同時に複合危機を形成する実体経済の危機が、景気変動の局面として位置づけられる循環的性格を持つのか、より長期的な時間軸でしか捉えられない構造的性格も持つのかの見極めが大切になる。当然政策対応が異なってくるからである。複合危機を構成した08年世界金融危機そのものへの政策対応については、異例の金融政策の採用も含めて「止血効果」はあったという評価が多いようだ。何しろ金融政策の力で物価を引上げるという、どう考えても本末転倒したなり振り構わぬ手段が採られたのである。ただしその副作用については十分に予測できているわけではない。異常事態からの「出口」の歩み、とくに基軸通貨を発行する米国の金融政策の副作用は回復基調にあるといわれる世界経済に大きな影響をもたらすことは間違いない。
現代の複合危機にもうひとつの新しい要素をつけ加えているものが「グローバル資本主義」「グローバル経済」である。この要素の持つ概念の曖昧さは措くとして、複合危機の震源地には、米国を含む先進諸国だけではなく、BRICSなどの新興国を含む途上国も含まれるということは否定できない。それだけ世界経済の再生産(供給・需要両面で)に大きな存在感を持ってきたことがその根拠である。九七年のアジア通貨金融危機は先進諸国の実体経済危機へと拡散し、08年の複合危機は先進国(米国・EU)から途上国へ波及してグローバルな実体経済の危機を拡大した。現代の複合危機が「グローバル資本主義」のもとで醸成される以上、先進諸国の金融危機が途上国の経済危機を巻き込むか、あるいは途上国の通貨・為替危機が先進諸国の経済危機に伝搬する可能性をつねに孕んでいるといえる。
さらに、16年以後のブレグジットの開始、トランプ政権の誕生、17年のドイツ総選挙や仏上院選での既成中道政党の後退等々は、それぞれ国・地域による事情を抱えながら、上で述べてきた経済危機としての複合危機に、さらに「グローバルな政治危機」の要素も合成して新たな、より厄介な複合危機の様相を呈しつつある。経済危機としての複合危機が「経済の金融化」を媒介にしているとすれば、政治危機としての複合危機は「グローバル資本主義と国民国家・経済民主主義」を対抗軸にしているように見える。そう考えると現代の複合危機の絡み合った糸をほぐすのはそう簡単ではない。
[こんい ひろのり/國學院大学経済学部教授]