「見えざる手」の呪縛を超えて

根井 雅弘

アダム・スミスは、経済学を専門に学んだことがない人でも名前くらいは知っている『国富論』の著者である。日本では、戦前からスミス研究の蓄積があり、多くの優れた研究書や啓蒙書がすでに出版されている。ところが、私がこのたび書き上げた『アダム・スミスの影』は、研究書でも啓蒙書でもなく、スミスがのちの経済学者にどのような「光と影」をもたらしたのかに焦点を合わせた、いわば「ワンポイント」の思想史である。タイトルに「光」を含めなかったのは、「影」と比較して、スミスが説いた経済的自由主義の「光」のほうは自明のように思えたからに過ぎない。
私の学生時代、ハリー・G・ジョンソンが夫人と一緒に書いた『ケインズの影』(中内恒夫訳、日本経済新聞社、1982年)という本がよく読まれていた。この本を書いたときのジョンソンはマネタリストだったが、かつてはケンブリッジのインナー・サークルの人たち(ジョーン・ロビンソン、ニコラス・カルドア、リチャード・カーンなど)とも懇意にしていたケインジアンであった。ジョンソンは、若かりし頃の自分が傾注したケンブリッジの経済学がほとんどケインズという過去の偉大な「亡霊」に支配されており、真の理論的革新が途絶えていることを告発したのである。
『アダム・スミスの影』を書くに当たって、ジョンソンの本のことも脳裏をかすめたが、私は思想史家であって理論家ではないので、特定の立場からスミスを批判したり擁護したりするだけの本にはしたくなかった。スミスの著作は、『道徳感情論』にしても『国富論』にしても、多様な解釈を可能にするほどの「豊饒な大地」のようなものであり、特定の立場に固執することは生産的ではないように思えた。そこで、フリードマンが市場万能論の元祖のようにスミスを取り上げていたとしても、まず、彼の解釈を忠実に紹介し、それが現実の動きにどのような影響を与えたか(例えば、ベルリンの壁の崩壊後の市場原理主義の流行)、しかし、そのような解釈はスミスの原典に即して正しいといえるのかを慎重に検討したつもりである。
スミスは、『道徳感情論』でも『国富論』でも「見えざる手」という言葉を使っていたが、経済学史上、この言葉ほど誤解を招いたものはないといってよいほど独り歩きしてきた。フリードマンのようなノーベル経済学賞を受賞した高名な経済学者を含めて、現代の経済学教科書も、ほとんどは「見えざる手」を自由放任主義を象徴する言葉として使っている。しかし、思想史家としては、その言葉がどのような文脈において登場し、どのような意図があったのか問わずにはいられない。詳細は拙著を参照してほしいが、それが重商主義を批判する文脈で登場し、しかもスミス独自の「資本投下の自然的順序」論と密接に関係していることだけは押さえておきたい。
スミスが自由競争や自由貿易を原則として支持した経済的自由主義者であったことは間違いない。だが、いついかなる場合でも、「自由」が錦の御旗になるのかといえば、そうとはいえないと思う。例えば、スミスは銀行業の自由化には慎重であり、それが公共の利益を損なう場合にはある程度の規制はやむなしと考えていた。また、保護貿易から一気に自由貿易に移るような「ショックセラピー」にも反対で、貿易の自由化によって損失を蒙る人たちのことも配慮しながら、漸進的におこなうべきだと述べている。スミスは、意外にも、急進的な自由化論者ではなく、穏健な自由主義者だったのだ。
私が拙著のなかで書いたことは、スミスの原典を丁寧に読んだことのある人たちには自明であるかもしれない。だが、思想史家の世界での「常識」は、必ずしも世間一般の「常識」とは異なるのがつねであり、専門家としては、後者の「常識」に反省を迫る仕事も大切ではないか。私を『アダム・スミスの影』の執筆に駆り立てたのは、この一点にある。
京大で経済学を講じるようになってから、すでに四半世紀以上の年月が経過したが、経済学の古典を丁寧に読み込み、自分なりの理解を学界の通説や世間のイメージと突き合わせるという仕事の本質は少しも変わらないし、これからも続いていくだろう。
[ねい まさひろ/京都大学大学院経済学研究科教授]