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「ニューディール」再考 その② 後期ニューディールの縮図

西川 純子

「7人のニューディーラー」などというと、映画の題名のようで格好よいが、ラウクリン・カリーにとって重要なのは、「お互いに気心が知れて、緊急の問題について意見が完全に一致するような人たち」の存在であり、そのような人たちを数え上げれば7人になったということである。結果として、7人を中心に政策集団を作る試みが実現することはなかったが、カリーのメモは残った。日付は1937年3月とある。
メモだからといって「怪文書」扱いするなかれ! これをもとに人物配置図を描いてみると、再選を果たしたローズヴェルト政権のもとで後期ニューディールが立ち上がってくる様子が見えてくる。
中心にはローズヴェルト大統領、その膝下には復興金融公庫から出向するコーコランと、公共事業庁から出向するコーエンがいる。二人をワシントンに呼んだのは、ハーヴァード大学の恩師F・フランクファーターであった。コーエンが法律を書く、コーコランがこれを議会へ持ちこんで折衝する、初期ニューディール以来の二人の法律家の分業と協業は同じだが、37年以降は2人と大統領の間に明らかな変化があった。大統領の側近であるよりもニューディーラーであることのほうを2人が優先するようになったためである。
財務省にはホワイト、連邦準備局にはカリーがいる。ホワイトとカリーはハーヴァード大学で共に講師として経済学を教える仲であった。博士論文では彼らは一つの賞を争った。賞をとったのはホワイトのフランスの国際収支をテーマとする論文だったが、ユダヤ人であった彼はハーヴァードでの就職を諦めて、1932年にウィスコンシン州のローレンス・カレッジに移った。二年後に彼を財務省に推挙したのは、シカゴ大学のJ・ヴァイナーである。
カリーは1934年に『合衆国における貨幣の供給と管理』と題する書物を公刊して、アメリカの銀行制度を痛烈に批判した。彼を財務省に誘ったのもヴァイナーである。カリーは理論を実践に移すよい機会とみて大学に研究休暇を申し出たが、拒絶されたためにワシントン入りを決心した。間もなく彼はエクルズの補佐として連邦準備制度の改革に着手する。ホワイトが財務省に到着したのは、エクルズが連邦準備局に移った後であった。
ホワイトとカリーが金融・財政の担当であるとすれば、ミーンズが得意とするのは産業と資本である。彼が1932年にA・A・バーリと共に書いた『現代株式会社と私有財産』は、非金融最大200社の株式所有を分析して注目されていたから、ワシントン入りするときのミーンズはすでに有名人であった。彼を農務省に誘ったのは、R・G・タグウエルである。ミーンズが水を得た魚のような活躍を始めるのは、1935年、全国資源委員会の調査部門で統括者になってからであった。
労働省で労働問題と福祉政策を担当したのはルービンである。彼がもっとも影響を受けたのはソースタイン・ヴェブレンである。ヴェブレンを信奉する弟子は多いが、ヴェブレンが目をかけた弟子は少ない。そのうちの一人がルービンであった。
ルービンの近くには常にヘンダーソンがいた。2人は全国産業復興法と農業調整法の成立から消滅まで、苦労を重ねた仲である。ローズヴェルトは「ワシントンで一番タフな男」と言ってヘンダーソンを重宝がったが、そのせいで彼はニューディールが生み出す新しい職場を転々としなければならなかった。しかし、何処へ行っても彼が一貫していたのは、消費と消費者を重視する立場である。
人物配置図には後期ニューディールの縮図がある。おそらくカリーには1937年に入ってニューディールが行き詰まったことがわかっていたのであろう。経済復興どころか恐慌の再来さえ予想されるなかで、彼はニューディール政策転換の契機を七人の仲間と見出そうとしたのである。
[にしかわ じゅんこ/獨協大学名誉教授]