• TOP
  • PR誌『評論』
  • PR誌『評論』208号:今、なぜ中江兆民か  ──『中江兆民と財政民主主義』刊行に寄せて

今、なぜ中江兆民か  ──『中江兆民と財政民主主義』刊行に寄せて

渡瀬 義男

2017年は、歴史的な偉業達成から起算した年数による節目が集中する年である。世界史的にはマルクス『資本論』刊行から150年、ロシア革命から100年であり、日本史では大政奉還から150年である。今わが国でこの150年を遡れば江戸時代の末年に当たり、まさに激動の時代が産み落としたかのように、夏目漱石、正岡子規、南方熊楠などが一斉に呱々の声を上げている。この年、陽暦で1847年12月8日生まれ、後に稀代の政論家と謳われる中江兆民は、倒幕佐幕の激流をよそに仏学修業中の身であった。王政復古の宣言を、20歳の兆民はどのような思いで聞いたであろうか。
明治維新の渦中に身を投じなかった兆民も、フランス留学を終えて帰国するやルソー民約論の翻訳で言論界に登場する。兆民が以後、自由民権運動、自由党、そして第一議会での立憲政治の高揚に加わりながら、挫折の辛酸をも舐め尽くしたことは周知の通りである。この兆民は、私にとって民主主義思想の唱道者という以上に財政民主主義の先達であった。その視座から新たな兆民像を描くことが私の夢であった。ささやかな本書でそれが叶った。
財政民主主義は、国民代表の議会による財政のコントロールを意味する。その意義について、わが国では大内兵衛教授をはじめとする先学の豊かな研究蓄積があるが、私は次のように考えている。
現代における財政民主主義の本義は、主権者たる国民を正当に代表する議会が、予算の編成、その執行状況の監督、決算の監査・評価・承認に関する権限を、情報の公開と国民による監視の下に徹底して行使し、税負担の公平を軸に財政運営の公正を実現することにある、と。この観点からすれば、①普通選挙の実施、②国会の予算議定権拡充、③国民輿論の力を背景にした財政の監視、④税負担の軽減・公平を主張して止まなかった兆民は、財政民主主義の要素たる「原石」をことごとく掘り出したことになる。
兆民の原石は、天皇主権を第一義とする明治憲法下にあってはもちろんのこと、国民主権の日本国憲法の下にあっても、全く輝きを失わない普遍性を備えている。しかし、現時点で問題とすべきは、兆民の立論の普遍性ではなく、むしろその今日性にあると思われる。というのも、現在の安倍政権が財政民主主義の形骸化をあからさまに進めているからである。では、財政民主主義の危機と兆民との接点はどこに現れているであろうか。
第一に、民意を歪めて議席を配分する小選挙区制の不備が放置されている。この制度に伴う一票の格差は、選挙権の平等を叫んだ兆民の決して認めない事態であろう。国民の政治参加を遠ざける他の規定と併せ、公職選挙法は根本から見直す必要がある。
第二に、国会が巨大与党を擁する内閣に牛耳られ、財政処理の最終的決定機関としての役割を放棄してしまっている。国会は行政監視の機能すら喪失しかけており、今や兆民の求めた国会像とは対極にあると言うべきである。
第三に、情報の開示と自由な市民活動を敵視するような立法が相次いでいる。二〇一三年制定の特定秘密保護法が、ジャーナリスト・研究者・議員による行政府のチェックを封じ込める手段であることは疑いを容れない。先月、政府が無理押しに成立させた共謀罪法も、テロ対策に名を借りて政府批判取締法に転じる危険性は高い。言論弾圧に生涯をかけて抵抗した兆民なら、自由と人権が脅かされる警察国家・監視社会の到来を断じて許さないはずである。
第四に、財政運営が著しく公平・公正を欠いている。税制上の優遇措置や抜け穴は数多く残され、公共事業をめぐる利権も跡を絶たない。「森友・加計学園問題」が、かつての開拓使官有物払い下げ事件と同根・同質であることは、強権をもってしても隠し切れない事実である。藩閥を頂点とする一切の縁故政治を排撃した兆民であれば、雄渾双びなき弾劾文を政府に突き付けることであろう。
兆民の原石は、時代と激しく擦れ合うことで一段と光を増しているのである。生誕一七〇年目を迎えた兆民の新しさがここにある。
[わたらせ よしお/日本財政学会・日本財政法学会会員]