大倉喜八郎のオーラルヒストリー

村上 勝彦

オーラルヒストリーというとややハイカラな感じがするが、要は口述経歴。財閥を一代で築いた大倉喜八郎は、当時の雑誌などに膨大な談話を残し、それらのほんの一部が口述書にまとめられた。当時、刊行されたものが何冊かあるが、そのうち『致富の鍵』の復刻改訂版が今回、日本経済評論社より発売された。刊行元は大倉が創立した商業学校の後身、東京経済大学であり、筆者もそれに協力した。100余年前の原著を現代表記にしただけでなく、原著にない詳細な注釈、解説、年譜を加えたので復刻改訂版とした。
このような談話、口述書は資料的にどのような意味があるのだろうか。「一代で」と述べたことと関係し、五番目の規模とされる大倉財閥には大倉の個性が強く刻印され、「喜八郎財閥」とも呼ばれるほどである。銀行経営の拒否、投資先の大陸への傾斜などが特徴とされ、これがまた、戦後の財閥解体後に企業グループとして再結集できなかった重要な要因ともされる。経営人材難、非組織性も他の要因とされるが、それには米寿の歳まで財閥トップの座にあり、その四年後の死去まで、「俺は死ぬまで中国事業に関わる」と述べたワンマン的、やや人物本位的な組織体制が関わっている。
こうした特徴は、もちろん同財閥のおかれた位置、企業戦略などを含めた「資本の論理」として説かれ、他方で大倉の経営観、かなり特異な考え方などからもアプローチされるべきだろう。彼の考え方、人生経験、心に強く刻み込まれたこと、得た教訓などが経営観の形成に与り、そこではオーラルヒストリーの出番となる。大倉の場合、体系だって経営観を述べたもの、まとまった著述書、さらには日記類もなく、関東大震災以前の経営資料は乏しい。事に当たっては趣味の狂歌で詠み、それは生涯一万首以上もあって日記代わりともいえるが、残念ながら多くは残されていない。
したがって彼の談話、口述書に多くを頼らねばならないが、例に漏れず、それらは必ずしも事実を示したものとは限らない。数え92歳で亡くなる寸前までの談話録があるということは、高齢による記憶違いもあり、とくに事柄の起こった時期、起承転結などについての思い違いが見られる。もちろん自己顕示的な表現も免れない。オーラルヒストリーを活用するには、その吟味、見極めが大切だろう。
一つの例を述べたい。大倉は『致富の鍵』で、実業界をめざす青年に、商機は必ず存在し、それを看破し捉えることが重要だと説き、自己の青年時代の最大の商機は銃砲商になったことだとする。日本の銃砲輸入、幕府諸藩の銃砲装備の状況、またグラバー、スネル兄弟、西村勝三など一部の銃砲商いについてはこれまで論じられてきたが、当時の銃砲商全体の状況は不明のままであった。この点で大倉はエピソード的だが貴重な体験、事実を語っている。だがそこには、横浜開港場で黒船を目撃し、内戦必至と考え、江戸に戻ってすぐに銃砲商を始めたとする短絡的表現、誇張が見られる。大倉の多くの談話をつぶさに捜すと、銃砲商に転じる数年前、公儀銃砲師の胝志摩の門人になったとするものがあり、これだと用意周到な大倉らしい行動だと合点がいく。
大倉自身も自認していることだが、彼への毀誉褒貶は甚だしく、また後世の評価もさまざまで、革新的事業家、類い稀なベンチャラーだとする論と、「政商」であり、武器・戦争で富を得た「死の商人」だとする論もある。政商という言葉を造語したとされる山路愛山は、「他人は思慮に負けて手を出さざりしに大倉氏は思ひ切って突進したり。此人少年の時より些かぼんやりしたる所あり、朋友間には馬鹿の綽名さへありしと云ふ。其成功が時勢を見るの聡明に基きたると云はんよりも、寧ろ盲蛇物に恐ずして進みたる勇気に在りしことを知るべし」と述べ、大倉の人となりから後者の論に近い議論を展開する。上述の大倉の短絡的表現の影響を受けたものかもしれないが、「些かぼんやり」、「馬鹿の綽名」という人物評は、日清戦争後に初めて現れた極少数の説をそのまま取り入れたもので、機敏な大倉に対しては的外れであり、そこから政商論を説くのはじつに短絡的といえる。
ところで金融業ともいえる質屋の三男であった大倉がなぜ銀行経営を拒否したのか。部下や身内から何度も銀行設立を勧められたが、「俺は実業家だ、利鞘で稼ぐ銀行業は性に合わない」として、言下に拒否したとされる。近くに安田善次郎や渋沢栄一がおり、彼らに敵わない、彼らに任すべきだと心中思っていたのかも知れない。明治二九年の還暦を過ぎたとき、また第一次大戦好況時ともされるが、いつ、どのような経済情勢のときに述べたかを知ることも大事だ。銀行欠如は1930、40年代には不利だったが、多くの新興銀行が倒産した20年代にはかえって幸運であったともいえる。ワンマン的な大倉財閥におけるこの問題の一端を、大倉のオーラルヒストリーから読み解くことができるのではないか。
大倉の逝去時にほぼ五割強、その十数年後に六割余になったとされる大倉財閥の海外資産比率が投資先の大陸傾斜であり、敗戦でその資産は総て消滅した。大倉は三井・三菱などの総合財閥が手薄でニッチな分野に好んで進出し、それが大陸傾斜を結果したとも考えられる。しかし大倉は低利益率を承知したうえで、「日中経済提携」を唱えながら、大陸投資を拡大していった。中国市場は広大だとし、将来を期した面はもちろんある。大倉に初期アジア主義的な思想傾向もうかがわれる。オーラルヒストリーが役立つかもしれない。
大倉の多くの口述類、彼に対する小評伝を基にして、さまざまな伝記、伝記小説が作られ、とくに波乱万丈に富んだ青年時代は面白く、現在も新たな刊行が見られる。歴史小説は意味があるが、そこで書かれたことが事実と思われ、それが広がっていく。歴史小説家の司馬遼太郎のもつ強い国民的影響力を前に、歴史家はそれを上回る魅力ある作品を書かねばならないと、色川大吉氏がかつて筆者に語ったことを思い出す。オーラルヒストリーを楽しみつつ、そこから事実としての歴史を探ることも求められる。
[むらかみ かつひこ/東京経済大学名誉教授]